Chasing Diamonds

長文考察愛だだ漏れ系aimのぶろぐ。140字じゃ足りない愛は原石を追いかけて。

Figuring out the figures ~フィギュア考察と和訳~

 

マスカラ発売2周年おめでとう。

フル解禁”前”からフォロワーと一文一文読み解いて暴れるスペースも何回かやっていたにも関わらず、自分のフィギュアの解釈をまとめ上げられずに気づけば2年が経っていた。発売2周年とか祝うような節目じゃないけど、こうでもしないと本当にお蔵入りさせてしまいそうなので、やる気をブーストさせるお約束もして、今、筆を執っている。

あの時ぶろぐ読みたい!って言ってくれてたり「ここってどう捉えてますか?」って聞いてくれてた人たち、まだいるかなあ。いないかもなあ。遅くなっちゃったけど、わたしなりの答えです。

 

いつもと違って和訳だけ探してる人に優しくない構造だけど()ラップの和訳だけ見たいよ〜って方は青文字の塊を探していただければと思います。

歌割りは【】でくくっているのがその色の2人によるユニゾン部分。【】と文字の色の振り分けには特に意味はありません。できるだけ全体を通して均等にはしたつもり…

 

 

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①”SixTONESの”フィギュア、徹底解剖挑戦録

 

裏切らないものを僕らずっと探して生きている

だらしない自分に終点を見ている

 

あまりにも京ジェらしすぎて聴いた瞬間から衝撃を受けた記憶のある歌詞。

 

まず何と言っても「裏切らない」という歌詞を歌うジェシーで思い浮かぶのは、常日頃から「音楽は裏切らないですから」と紡ぐ彼の姿。プラス・マイナスどちらの状況でも「人生まさかの連続」座右の銘に掲げ、「期待しない」ことにもすごく重きを置く我らのセンターが言い切る「裏切らない」というのは本当に重みのある言葉で。だからその「裏切らない」対象としてみられている音楽がどれだけジェシーにとって、そして同時にSixTONESにとって、大きく、揺るぎなく、替えの効かないものかもわかる。

となるとどうしても、フィギュアを”SixTONESのうた”と捉えた時、この「裏切らないもの」は音楽以外にない。

そして音楽は、頂点も地獄も味わいながらSixTONESという形をやっと手に入れた6人が「ずっと探し」てきた、けれど、”今はもう見つけているもの”と言っていいと思う。すると、この行は今現在の話ではなく、"過去に存在していた「探して生きている」状況”を示唆していて、彼ら自身が振り返って見ている物語の始まり、SixTONESの始まりだと思えてくる。

 

続く大我さん。努力することに長けた大我さんが歌うことに本当に大きな説得力を感じてしまうところ。

ここは「だらしない自分”の”終点を見ている」ではなく「だらしない自分”に”終点を見ている」であることが肝だと思っていて。

”の”だったら「終点」は「だらしない自分の終わり」を示す。でも、自分”に”だから、「だらしない自分」に対して強い負の感情が働いていて、「終点」を迎える覚悟を決めた、かのように聞こえる。つまり、だらしなさと決別する覚悟を示す言葉。

そしてこれはフィギュア全体を通して何回かある大好きな要素なのだけど、一見とてもネガティブなこの歌詞をポジティブにも捉えられるのは、大我さんの歌い方による影響がとても大きい。歌声に表情を乗せることがもはや専売特許のような大我さんが、終始笑顔で、本当に楽しそうに歌うこのフィギュア。だから「だらしない」や「終点」という後ろ向きな語彙も、その語彙を克服し乗り越える前向きさとして捉えられて、音楽の魔法をかけられているような気持ちになる。

 

そして、これは英語的な時制の考え方かもしれないけれど、この2行には語尾が現在形という共通点が存在する。ジェシーの1行目で、”これは過去を振り返る物語の始まり”と捉えたけど、形としては現在形を使って過去"だけ"を示さないことで共感性を上げる、という作業がこの2行では行われているように思う。

わたしはフィギュアのことを基本的にSixTONESの物語として捉えているけど、同時に、公式の説明にもある通り、フィギュアは「エールソング」だと思う。その「エール」の要素を強く感じるのは、きっと、共に闘ってくれている、今この瞬間一緒に歩みを進めてくれている、という安心感を、”現在形であること”によってもらえるから。

例えば、「裏切らないものを僕らずっと探して生きて”きた”」だったとしたら。個人的にはそうして過去の経験だけを話されると「エール」とは捉えにくい。だからSixTONESが音楽という「裏切らないもの」をすでに見つけていたとしても、「探して生きて"いる”」と言ってくれることが、フィギュアが「エールソング」という言葉を背負うに値する根拠のひとつだと、とても強く思う。

 

 

そんなうまくいくもんじゃない

でも人生ゲームやめれない

手のひら返し なんていらないし

今更どの面下げて歩いてんの

呑気にお気楽 お気の毒様

まだまだ世の中 こんな薄情?

ラジオノイズ 降りるチョイス

途切れ途切れタクシー

 

どこも本当に納得でしかない歌割りが軽やかに変わっていくAメロ。

 

1行目の悲観的な北斗の発想を2行目ですぐに転換するたろぴは、たろぴからの愛情の矢印と見守る力が強いほくしんというコンビのらしさが垣間見える。

と同時に、この一見すると”やめたいのに”「やめれない」葛藤と捉えられる1行が、”北斗の後の慎太郎”という対比が際立つ並びになることで、”ポジティブな中毒性”による「やめれない」に捉えられるような気がする。かっぱえびせん的なやめられない(伝われ)

たろぴは何が正解か分からないから………今はめちゃめちゃ幸せです(音楽と人)」「歌もダンスも好きかって聞かれたら、俺、多分どっちも好きじゃないもん(笑)でも、楽しいから続けられてきたし、これからも続けられるんだと思う。で、そうやって楽しんでる自分も好き(ジョン)」、「歌にせよ、ダンスにせよ、この仕事でしか味わえない楽しさがあるし、ベースに”嫌い”はあるけど(笑)全然苦じゃない(カレンダーmoments2022)」と言うように、絶妙なバランスで矛盾の隙間をくぐり抜けているようなマインドの人だと思っていて。それは「ビジネス自由人(MORE2020)」という本人の自己分析にも表れるように、”自由で自分らしくいたい”という意識と、周りの人の思いを察知する能力がものすごく高いことのバランスを常に探している人だからだと思う。(急にレファレンスおばけ)

だからこそこの「やめれない」はたろぴが歌うことによって、ネガティブでありながらポジティブでもある、これまた大我さんと同じように”笑顔を乗せて”紡がれる「やめれない」なのかなと。

ここまで実は2022年に書いてたので、2023年になって「たろぴがかわいいのは【未完成にポジティブを纏わせられる人だから】」という論文を提出していたり、たろぴのソロインタビューや山里亮太という人間の思考回路も経た自己分析/表現が増えてること・ソロダンスを頻繁に見られるようになったことによるきょもしんの血縁関係(ではない)を日に日に強く感じてることは、奇しくも強力な裏付けとなるなと思っている。きょもしんにはやっぱり、特に"表現者(読み:アイドル)として"の血筋が存在する。

 

「手のひら返し なんていらないし」は短いけれど、あざとかわいいペアと見せかけて、やっぱり年長で実は一番ジャイアンな瞬間があるきょもゆごらしい1行だと思っている。

それからフィギュアをペアで見ていくと、実は大我さんがジェシーと同じくらいフレーズを繋げているのがこちさんで。ここはその始まり且つ最も1行を”分け合って”担っている部分。

物理的には華奢組だし、可愛くあざといフリして、実は一番骨太でかっこいいきょもゆごのスタートダッシュという感じ。

 

そしてこの一節の肝と言っても過言ではないと思うのが続くJ2。

まず「今更どの面下げて歩いてんの」は誰に対しての言葉か明言はされていないけど、”誰か”や”上手くいかない人生ゲーム”への言葉だと仮定すると、まずSixTONESで歌っている姿が浮かぶのは樹だと思う。でも実際歌うのは「(SixTONESの中で)喜怒哀楽で言うなら怒を担いたい」と自ら言う樹ではなく、日々博愛の精神が溢れるジェシー。これは特大J2だなあと初めて聴いた時から思っていた。

1万字インタビューの樹にも見れる”見返す気持ち”にも通ずる言葉を紡ぐのはジェシーで、その後の達観し先に進んでいくような「呑気にお気楽 お気の毒様」の方を担うのが樹であることで、意外性があるし、言葉の強度が増すように思う。SixTONESの外交官的立ち位置の2人が入れ替わることも可能だと示すのと共に、わたしにはジェシーが樹に全部背負わせないように守っているようにも聴こえる。だから表面上の言葉は辛辣でも、結局は愛情が垣間見えてしまうというか。

 

次の「まだまだ世の中こんな薄情?」は前述のきょもゆごで言ったことにも通じる、ものすごくポップに厳しい現実を突きつけてくるこちさんで"らしさ”を強く感じた。薄情さに絶望するというよりは、薄情さを認識しているけど、ものともしない強さ。キラキラのアイドルスマイルでこの歌詞を歌うこちさんには、ものすごい発光量で「薄情さ」を跳ね除けていくような印象を抱く。

 

突然出てくる「ラジオノイズ 降りるチョイス 途切れ途切れタクシー」はなかなかに解釈が難しい部分。さらっと追ってしまうと意味より韻のリズムが重視されている部分に感じる。

でも、SixTONESの物語、それも序盤の一節と捉えたとき、「ラジオノイズ」は”雑音”であることから”聞きたくない周りの言葉”、「降りるチョイス」は”アイドルを辞める選択肢”、誰かを運ぶ役割を担う「タクシー」が「途切れ途切れ」というのは”活躍のチャンスは途切れ途切れにしか巡ってこない”と捉えてみたらどうだろう。この葛藤した結果達観する域にまで達したような空気を纏うAメロときちんと馴染む解釈になるんじゃないかと思う。

周りにはうるさい雑音が溢れてて、そのすぐそばには辞める選択肢も転がっていて。しかも巡ってくるチャンスはそもそもいつ巡ってくるかもわからないし、乗れたとしてもいつまで続くのかもわからない。

怖いけど、ポップなメロディーとリズム重視の単語の羅列の奥に実はそんな厳しい現実が隠されているほくしん、つまりSixTONESの始まり バカレアでセンターのふたりの2行なのかもしれない。

 

 

シーサイド だらだら走ってる

生まれ変わりを未だ信じてる

催眠術 

花占いみたいに一枚一枚散る夢の色

無理にでも塗って息を切らしている

 

ここはまず「だらだら」を歌わせたら天下一品の声をお持ちの樹さんに拍手。ラッパーに共通して必要な素質だと思うけど、脱力感をかっこよく見せるって言うのは本当に限られた声の人しかできないことで、樹の声質が間違いなく備えている武器だと思う。あと樹が歌うことによって自然とあてのない”ドライブ”のだらだら感が想像しやすくて、直前の「タクシー」とも整合性がある感じも好き。

 

そして続く「生まれ変わり」は前の「だらだら」から派生するにはなかなかに強い言葉。

この「生まれ変わり」は果たしてAメロの「人生ゲーム」の中の「生まれ変わり」なのか、それとも一度人生を閉じてやり直すような規模の「生まれ変わり」なのか。

でも、文末の「信じてる」に込められた希望からは、完全に別の人生を求める「生まれ変わり」と言うより、脱皮的な「生まれ変わり」に感じられる。だからこそ、海辺をだらだらと走りながら出てくる気持ちなのかもしれない。ドライブしながら”あ〜俺の人生明日にでも変わんねーかな〜"みたいな。

 

次のサビ前の京ジェが担うキーワードは場面転換・非現実・抽象だと思う。

まず割とリアリティーのあったはずのドライブの様子から、突然大我さんの柔らかな声にかけられる「催眠術」で抽象の世界へと場面転換がなされる。

そして「催眠術」から「花占い」という、共にファンタジックな空気を纏うと言えど、全くの別物へのシフトが非現実感を強調する。

さらに歌詞を「一枚一枚散る」で区切って考えると、「夢の色」を宿した花びらが「花占い」という確率論によって散ってしまう絶望を表している。しかも「花占いみたいに一枚一枚」とフレージングされることで "ひとつひとつに願いや希望をかけたにもかかわらず散ってしまう夢" という情景が浮かんで、より心がぎゅっとなる感じがする。

でも、その色を「無理にでも」「息を切ら」すほど塗り直すのは”粘る”ことに長けた、この6人のSixTONESを絶対諦めなかった経験が何よりもその能力の証明になるジェシー。デビュー決定後に「皆さん粘りましたね」ってファンに向けて言ってくれてしまうような人だから、その人が”散っていく夢の色を息を切らして無理にでも塗っている”と考えると、絶望の先の好転を信じられるような気がしてしまう。

 

 

裏切らないものを僕らずっと探して生きている

だらしない自分に終点を見ている

 

1人、無音の部屋でゆらぐ夜

エンドロールが流れる

あなたまだ十分こどもでいいんだよ

簡単だったはずのドラマ

毎回ハズレ、ガラス越しに取り替えられる

 

この初めての6人のサビで特徴的だなと思ったのは、最初の2行から間奏やラップに進んでいくのではなく、立て続けに新しい構成が現れるところ。冒頭で京ジェが掲げた2行を再び噛み締めるというよりは、一度その全く同じ言葉たちで物語に読点を打たれているような感覚。まだ物語は過去にある。

 

そして新たなパートでまず気になったのは「ゆらぐ」。

「ゆらぐ」のは夜なのか、自分なのか、それともエンドロールの映像なのか。気持ちのブレを示しているのか、それとも変化を前にしたポジティブな初期微動のようなものなのか。

「エンドロール」の方も曲の中盤で聴くにはなかなかに不穏な言葉で。これは果たして何の「エンドロール」なのだろう?自分のこれまでを総括するエンドロールなのか。自分を象徴する良い映像?それとも2度と戻らない走馬灯みたいなもの?苦しみや葛藤の終わりを示すエンドロールなのだとしたら、ネガティブに感じやすい「ゆら」ぎがあるのはなぜだろう?

この姿が「1人」で「無音」の時のものであることはしんじゅりが歌うことでよりしっくりくるなとも思う。第一印象では硬派さや陽気さが勝つかもしれなくても、実際は人一倍繊細で気遣いの鬼な中間子のふたり。

 

そして続く”””ジェシーが歌う”””キラーフレーズ。ここはジェシーが歌っている、ということ込みで英訳した解釈もありなんじゃないかと思っていて。「あなたまだ十分子供でいいんだよ」は You deserve to be a child だな〜とずっと思っている。

あなたはまだ子供でいるのに値するよ、無理して大人にならなくていいんだよ、子供のままでも大丈夫だから、という包容力。

フィギュアをSixTONESの物語と捉えたとき、10代前半から普通とは言えない世界に飛び込んでありとあらゆる経験をしている人が歌うこの一文は、強烈な過去の自分へのメッセージに聞こえてしまう。

「エンドロール」を見ているのが過去の自分だとして、これは果たして「エンドロール」そのものに映っている言葉なのか、「エンドロール」を観る自分にかける言葉なのか、はたまたその瞬間にかけられたいと願った言葉なのか。

 

そして展開が読めるはずの、期待した通りになるとばかり思っていた「簡単だったはずのドラマ」。でも蓋を開けてみれば毎回予想は「ハズレ」で取り残されれば季節「ハズレ」で。しかも「ハズレ」だということはガラス越しにしか伝えられず、取り替えられる。

この1サビの後半からがフィギュアの大きなテーマである"代わりがいること"や"秀でた魅力の有無"に切り込んでいくパートだと思う。

「まだ子供でいいんだよ」と言われて当然な年から必要以上に比較される競争社会に身を置くこと、「簡単」とさえ思えてしまっていた状況で裏切られること。それがいかに酷かは、SixTONESの歩んできた歴史を知ってる人なら鮮明に想像できるはず。特にこれがきょもゆごほくのパートであることで具体例も浮かびやすい。でもその歴史があるからこそ、今は6者6様の個性を深く愛し合って尊敬し合って旅路を進めるSixTONESがいるわけで。

作詞のくじらさんが mg No.6のインタビュー(こんなぶろぐを読んでくれるほどの人は必読資料)で

(フィギュアに込めた思いは?)

SixTONESさんの個人的な印象としてJr.時代が比較的長かったというものがあります。エンターテイメントやそれに隣接した世界で活躍しようとしている人は数字や露出度、好感度によって態度をコロコロ変えていく…。何者かになろうと足掻くことの大変さ、その道中で人格を形成する難しさを書きました。

僕らは皆裏切らないものを探して生きているのだと思います。

とおっしゃっているので、流石に歌割りはあくまでも偶然の一致だと思うけれど、ここまで思い切ってSixTONESの過去を振り返るような歌詞だと捉えてもいいとわたしは思っている。そして軸となる音楽を奏でるときですら様々な人からの解釈を背負うアイドルのすごさを改めて感じるのがこのインタビューを踏まえたここから先の歌詞だとも思う。

 

 

It's stranger than fiction 

それはフィクションよりも奇妙な話

目立てば different

目立てば「違う」って

でも stay the same 

でも同じでいたらいたで

And you're wrong?

「間違ってる」って?

 

Replaceable figures

代替できる「フィギュア」(数字・人物像・姿・作り物)

空っぽ interiors

空っぽな中身

Caught up in the system 

システムに絡め取られて気を取られて

You're gone

「君」はもういない

 

さて、この曲唯一の英語詞。まずはあえて、上記のシンプルな和訳にわたしの解釈と補足を盛り盛りに加えた完全意訳を書いてみたいと思う。

 

フィクションの方がまだ辻褄が合うくらい矛盾してる現実。事実は小説よりも奇なり。目立っても同じでいようとしても結局は「間違い」って貼られたレッテルは剥がれない。変な話だよほんとに。

代わりがいくらだっている「フィギュア」(数字・人物像・姿・作り物)として扱われるんだから、そりゃあ中身は空っぽ。意思も心の中身も空っぽ。むしろそうでなきゃやってられない。中身がなければ頼りになるのはシステムという枠組み。絡めとられて気を取られてしまうのも当然でしょう?そこに「君」(人格)はもういない。存在できるわけがない。

 

この曲の最重要ポイント「フィギュア」。日本語で聴いて一番に思い浮かぶのは間違いなく、おもちゃのフィギュアだと思う。でも英語の figure という言葉には本当にたくさんの意味があって。

名詞だったら、数字、値、金額、主に何かを代表するような重要な人物像(He was a figure to look up to. =彼は尊敬すべき人物だった、的な)、姿、形。動詞だったら、考える、答えを導き出す、figure out なら解る、解明する。日本語でパッと思い浮かぶおもちゃのフィギュアは実は英語だと figurine と言うか、ヒーローものに限って action figure と言わないと伝わらない。

そんな単語をラップの部分で登場する「Replacable figures」の文脈で考えると、正確に当てはめられる訳は「姿/形」「数字/値」だと思う。

replaceble = 替えが効く、と言われていることから重要性が付随する人物像ではないし、「空っぽ」だとしても「中身」に触れられていることから、輪郭のある「姿/形」であると解釈することは難しくない。「数字」も個性があるというよりは簡単に代用できるものだし、何より「システムに絡め取られる」という表現との整合性が高いと思う。何かの「値」という意味の「数字」と捉えると「中身」も持つことができてわかりやすいかもしれない。

多面性が特徴であるアイドル、特にSixTONESに、この多面性の極みみたいな figure という単語をきちんと英語でも歌詞の中で割り当てているこの曲には本当に唸るしかない。きっと英語での表記がなかったら、カタカナのタイトル以上は踏み込まず、”おもちゃのフィギュア”を軸にした曲としてきっとまた捉え方が変わっていたから(それはそれでとんでもない解釈ができてしまうけど)。おそらく共作詞の部分でもあると思うので、どれだけ綿密に練られているのか、改めて感嘆してしまう。

 

そしてもうひとつこの前半の訳で触れておきたいパートは「caught up in the system」。

caught up in は catch = 捕まえる から来ているので捕まえられている、というニュアンスから絡めとられる、と受け取るのが順当なのだけど、もうひとつの意味として”気を取られる”も存在するので今回は両方書いた次第。個人的には”絡めとられて”と”気を取られて”の比率は6:4くらいかなと思う(細か)

 

 

Yeah

そう、

You're long gone

もう「君」がいなくなってどれくらい経っただろう

売る soul

魂は売っても

Can't turn it off

消せはしなくて

 

探してる another way 

他の道を探してる

Barcodes gotta be erased

バーコードなんて消されなきゃだめだ

 

そうやって「君」がいなくなって長いし、魂は売った状態。

でも。

消せるわけじゃない。動きは完全に止められるものじゃない。

必死に他の道を探してるんだ。

一点ものにはバーコードはつかない。バーコードがついているということは大量に生産され、効率よく簡単に識別されるための情報しかない存在。同じバーコードを持つ代わりだってたくさんいるわけで。

バーコードがひとつつくだけでそんなラベリングがされてしまう。

そんなものはもう消されなきゃいけないんだよ。いけないのはバーコードとバーコードを使う側のシステムであって、「君」が自分のを消してどうにかなる話じゃないんだ。

だからバーコードは、消されなきゃいけないもの。

 

ここで一番大事なのは「turn off」 と 「erase」の違い。

日本語ではどちらも”消す”と訳すことができるのだけど、英語だと明確な違いがあって。「turn off 」は「電源を落とす」方の”消す”で、「erase」 は消しゴムで消すように「消滅させる」方の”消す”。

だから「can't turn it off」の「it」は「君」でもあり得るし「魂」の方でもあり得ると思うけど、とにかくその”動きを止めることはできない”という意味になる。あくまでも“動きがなくなること”という”消える“に触れているだけで、”存在が消える“ほどの境地までは、否定するにしても、言語化が及んでいないのはある種の救いだとも思う。

 

そして最後の行は文法的な構造も実はとっても大事で。Barcode が主語だから”(誰かが)バーコードを消さなければ、無くさなければ”ではなく、バーコードは”消される”受け身の側に置いてあって、厳密に正しい訳は"バーコードは消されなければいけないもの”になる。

貼られたバーコードを消していない誰か、もしかしたら「君」を否定するのではなく、バーコードそのものを否定していることで、葛藤を打開する兆しを見せる、ラップの締めくくりであり、ここも「エールソング」たる所以だなと強く思う。

 

 

いつまでも後ろ向きのまま

ライトが影を作ってる

未だその3歩前で待ってる

溶けてゆく夜に落ちたままで

 

汚れていくだけの街でずっと僕ら暮らしている

正しさの周りで頭を抱えている

 

苦悩しつつも「バーコードは消されなきゃいけない」と改革の決意を決めたかと思いきや、まさしくこちらも「頭を抱え」たくなるほどとことん落ちきった歌詞がこの間奏前。

でもまたしても言葉と声の音色が矛盾する大我さんに導かれることによって、実は一緒に頭を抱えたくなるほどの歌詞だということには気づきにくいんじゃないかと思う。

大我さんがなぜ、他の曲からも頭ひとつ抜けるくらいフィギュアには笑顔の声音を乗せる選択をしたのか、それはいつか聞いてみたいなと思うことだけど、答えがわからずに必死に考えるなら、やっぱりこれは”過去の振り返り”だからなのではないかと思う。”時間が解決する”というのは使い古された言葉だけど、そこまで使われているのはやっぱり本当だからで。笑い話、とまではいかなくても、「いつまでも後ろ向き」だなんて究極に暗い状況でさえも微笑みを纏わせて紡げるのは、間に時間が存在するからなんじゃないかなと思う。だからこのパートも、わたしの中ではまだ過去の振り返り。

あくまでも内面と向き合っているパートでSixTONES外交官J2がいないこと、しんじゅりで揺らいでいた夜が北斗1人になると「溶けてゆく」のはまたぴったりな表現だと思う。

 

 

たおやかに番を待つ僕らずっとこらえて生きている

隠してた心はもう見つからないな

 

ある種苦悩の行き着く果てだったのかもしれない間奏を経て、「ずっと」で急に時間軸が俯瞰される再びの特大京ジェモーメント。

 

まず「たおやか」を英語の graceful としても捉えるのが私は好きなんだけど、このダイナミズムを感じる優雅さはジェシーに本当によく似合うなと思う。「番を待つ」という忍耐とか苦しそうで暗そうな状況にダイナミックな優雅さを、日本的な情緒でジェシーが持ってくる対比の美しさも際立つ。「辛抱した先は歩こうぜレッドカーペット」を5人にきらきらとしたジェスチャーもつけてもらいながら歩くのにこれ以上なくふさわしいひと。

最近雑誌を読み直していたらBARFOUT! 2023年7月号で「『俺、悪くない。何も間違ってない』と思って、好き勝手生きて行く人は楽だろうけど、周りを全然みていないよね。人間は堪えるのが一番難しいから、慣れてくると自分に都合の良いことしか言わないし考えなくなる。そうなったらおしまい。堪えられる人が強いんだよ」と言っているジェシーさんを見つけてしまって、ここにも堪えることをたおやかに成せる理由を見た。

そしてこの行で本当に大事になのは言葉の順序だと思っていて。

「ずっと堪えて生きている」けど「たおやかに番を待つ」のではなく、「たおやかに番を待つ」けれど、「ずっと堪えて生きている」。

どちらでも凛としていて、生きていくときの支えやエールになり得る1行だと思うけど、堪えて生きていてもたおやかでありたい・たおやかでいなければ、というのは、限界まで頑張っている人に頑張れと言うことがとても酷なように、取扱注意な励ましになり得る。

そうではなくて、たおやかに番を待っているように見えても、ずっと堪えて生きているんだとこぼすことで、耐えることとたおやかさを成立させられる望みが見えると思う。同時に 誰だって弱さがあるという共感も生まれて、その弱さを共有する共感は得難い信頼を生むと思う。京本担をやらせてもらっているのでこの価値観は本当に揺るぎない。辛くても、堪えなきゃいけないものがあっても、一緒にたおやかさを目指して生きていこうって。きっとできるって。そういう寄り添い方に感じる語順。

 

そしてこれまた巨大な概念を背負うのが続きの大我さん。

本来「隠す」という行為は”大事なもの“もしくは”見せたくないもの“に対して行われるはず。だから「隠してた心はもう見つからないな」の文字列は”隠すほど大事にしてた心なのにもう見つからなくなってしまった“の意に取るのが一番簡単だと思う。

でも、フィギュアの大我さんの歌声からは最初から笑顔が聴こえていたし、何度パフォーマンスを見ても大我さんはこのフレーズを笑顔で歌う。こんな嬉しそうな「もう見つからない」聞いたことないってくらい柔らかい微笑みを紡ぐ。

もしそういうことなら、これがポジティブな「見つからない」なら、「隠してた心」は「隠すことを強いられた心」なのかもしれない。空っぽにならなきゃ生きていけなかったから、隠すしかなかった心。大事だから捨てられはしないけど、見えないところには持っていかなきゃいけなかった心。そんな心が今、解放されたから、突然「隠す」という行為だけ過去形になったから、「見つからない」・存在しない状態は穏やかな笑顔を奏でるのかもしれない。

 

 

裏切らないものを僕らずっと探して生きている

正しくあればいい、後悔のない生き方で進もう

 

いつも振り返る度うなだれる

その足跡を消す度

どこかへ行こう、そのための花束を

ショーウィンドウに並ぶ僕ら

代替不可であれよフィギュア

あるがままで

 

ラスト。初めて「進もう」と「行こう」で現在形やラップ中の少しの過去形から抜け出すこのセクションは京ジェの2行を経て、ついに過去を振り返るのが終わって、現在から未来に進み出すパートだと思う。

 

ずっと探している「裏切らないもの」=音楽を見つけ、その存在を更新し続ける”現在”のSixTONESは、周りで頭を抱えるしかなかった「正しさ」も両手を広げて受け入れ解放している(受け入れることと解放することってちょっと矛盾するかもしれないけど、英語のembraceのイメージ)。

そしてそこからさらに未来へと顔を上げた時、大我さんが紡いできた微笑みをのせて振り返ることのできる過去ではなく、「いつも振り返るたびうなだれ」てしまうような「足跡」=過去を「消す」、今度は turn off じゃなくてerase する樹。

あえて目標は決めずに、今を大事に、「あまり自分たちの未来を縛らないでいてあげよう」とも決めているSixTONESにふさわしい「どこか」への誘いを、”今”の象徴にもなり得る「花束」を添えて紡ぐのはSixTONESの表裏の美きょもほく。

アイドルが放つ言葉として強烈な「ショーウィンドウに並ぶ」覚悟、「フィギュア」である覚悟を、バーコードが存在する世界線では矛盾していたであろう「代替不可であれよ」という言葉をおまじないのようにかけることによって、希望や未来のあるものに変換していくゆごしん。

そして、その「代替不可」のマインドを強化しつつ、だからと言って無理して代わりのいない道を探すのではなく、気負わない自分らしさを守ることこそが「代替不可」になれる方法だよと締めくくるかのようなジェシー

とことん、ありとあらゆる”過去”を経てきた”現在”のSixTONESで、同時に目線はずっと先の”未来”に向いたSixTONESだと思う。

 

初解禁当時から特に大きな衝撃を与えていたのはきっとここのラスト3行。

正直、「ショーウィンドウに並ぶ僕ら」が好きなアイドルに歌われる歌詞として強烈なことに、わたしは他の人の解釈を読んでからしか気づけなかった。確かに、"アイドルを好きでいることはその人の人生を商品として消費している”という自覚を持って、それをポリシーとしているオタクにはそれはそれは刺激の強い言葉だと思う。なるほどな、と思うし、解釈はやっぱり人の数だけあるのが面白いなと思う。

でもなぜ自分には「ショーウィンドウに並ぶ僕ら」よりもそこに続く「代替不可であれよフィギュア」の方が印象的だったのかと考えると、他の誰にも代わりの務まらない自分として表舞台に立つ選択を”自らし続けているSixTONESが大好きで尊敬してやまないからなんだと思う。もちろん、数多の目に晒されて勝手にこんなに解釈もされる人生なんて普通じゃない。こちらの想像が及ばないほど大変なことの方が多いと思う。でもそれに勝る幸せも見出して、その生き方を、アイドルでいることを、彼らは間違いなく自分の意志で”選んで”、今日もわたしたちの前に立ってくれる。その”選択”への深いリスペクトがあるから、彼らの発信を受け取って噛み締めることに罪悪感を感じるのはわたしの中では筋が通らなくて。だからこそ、「ショーウィンドウに並ぶ」ことも彼らの表現の手段のひとつなんだとスッと自分に馴染んだし、その比較されることから逃れられない舞台を選んでもなお、「代替不可であれ」と己に言える覚悟も持ち合わせたこの歌詞が最初から大好きで仕方なかったんだと思う。しかもSixTONESの中心軸のジェシーが自然体を強調するかのような「あるがままで」まで添えてくれて。信頼も好きも募る一方だった。

それから「フィギュア」に対して英語の解釈も持てていることも、この3行にポジティブな気持ちをもらえている理由だと思う。

日本語で捉えると本当にショーウィンドウに並ぶおもちゃのようになるけれど、この「代替不可であれよ」という言葉をかけられる対象の「フィギュア」はラップの部分で少し触れた、英語の figure の「重要な人物像(e.g. He was a figure to look up to. =彼は尊敬すべき人物だった)」を軸にしつつ、それを取り巻く「数字」や「」の figure すらも「代替不可」にする 「フィギュア」なんじゃないかと思う。しかも送り仮名がなければ”だいたい”と読むはずの「代替不可」が"だいがえ”と読まれていることによって世代交代の”代変え”も「不可」とする、どこまでも大切な「フィギュア」。

ショーウィンドウという多くの人の先の楽しみを象徴する場所を最大限に謳歌する唯一無二の「フィギュア」をわたしはこの歌詞に見た。

 

 

 

②フィギュア.2023

 

2023年までこのぶろぐを引っ張ってしまったからには絶対に書かなければいけないのは、慣声の法則ぶちあげメドレーにこのラップだけを抜粋したSixTONES。むしろこれを書くためにこんなに先延ばしにしていたのかもしれない(はい、そこ開き直らない)

ぶち上げメドレーの存在やフィギュアが入っていることはアリーナのセトリレポから知っていた。でもまさか、フィギュアがこのラップの部分だけだなんて思うわけがなく。京セラドームでぶち上がってたわたしはこの瞬間だけ確実に心の動きがスローモーションになっていた。この覚悟の曲でもあるエールソングをこんな風に進化させることもできるのかと衝撃を受けた。

 

意訳がわたしの解釈の全てと言っても過言ではないのだけど、とにかく、わたしにとってフィギュアのラップは無個性をテーマにした苦悩の末に改革を起こす覚悟を決める瞬間。それを初めてのドーム公演も含む慣声の法則ツアーでわざわざ抜粋してまで披露したSixTONESがいたということは、やっぱり今が改めて自分たちの「代替不可」な部分を再確認して定義し直して同じteamと呼ぶ存在とも共有しておきたいときだということなんじゃないかと思う。Jr.時代からの歴史もあるSixTONESの真骨頂が凝縮されたメドレーでの抜粋だったことも大きな根拠。

そしてこういう進化を重ねてくれるから、やっぱりSixTONESは永く好きでいさせてくれるひとたちだと愛を深められる。

 

 

 

③ So what's been figured out?

 

わたしはフィギュアのことをSixTONESのうた=究極のアイドルのうた】だと思っている。

受け取り方に無限の可能性を秘めた音楽の中でも特にさまざまな解釈を許す曲だと思うし、ファンかそれ以外かの違いだけでなく(ちなみにファン以外の受け取り方で最高なのはわたしのガチ身内のnoteなのでぜひ)、ファンの中でも”アイドル”という存在への向き合い方が浮き彫りにされながら解釈が大きく変わる余地のある曲だと思う。だから"SixTONESのうた”として捉えることに違和感やそれ以上の気持ちを抱く人だっていると思う。それはもちろん自由。

でも。このフィギュアという曲をもらってからたった2週間ほどで悲願のニュージーズ2021年公演が発表されて、大我さんがどれだけ「たおやかに待」っていたか痛感してしまったように。2年後には進化系の「辛抱した先は歩こうぜレッドカーペット」を紡いでしまうジェシーがいるように。何より、”アイドルだから”挑戦できる音楽の幅を広げ続けて「代替不可」な存在でいる証明を日々重ねていくSixTONESがいるように。

きっとこれからもSixTONESの歩む道はフィギュアのフレーズを彷彿とさせる瞬間がいくつもいくつも出てくるんだろうとわたしは思っている。そしてそれが大好きな人たちと「あるがままで」いることで、自然と”アイドルだから”の価値観を刷新していくSixTONESの道であることが、またさらに大好きでワクワクする。

 

完全に figure out なんてできないからこそ、永く、どこかへの旅路を共にさせてくれるSixTONESに最大級の愛とリスペクトを込めて。

 

 

 

 

 

 

SixTONES -フィギュア Lyrics:Page Grace, Whale Don't Sleep Music:Whale Don't Sleep