Chasing Diamonds

長文考察愛だだ漏れ系aimのぶろぐ。140字じゃ足りない愛は原石を追いかけて。

Mon amour était à Cherbourg。

 

フランス北端の港町シェルブール。その悪天候にも劣らないほど どんよりした小雨のパリを出発して15時間後。わたしは新橋演舞場の座席に座っていた。最愛のミュージカル俳優が今自分がいて夢を追っている国の作品を背負ってくれるなんて奇跡、見逃せるはずがなかった。

 

 

どんな場所に立っていようと一気に視線も空気も統べられる大我さんが好きだ。SixTONESのライブで会場の端から全体を歌で包み込む時もそうだし、ニュージーズで上の方から出てきた時もそうだし、今回花道をそっと歩きながら登場したのもそう。大我さんは”意図的に自然と”その場にある全ての心を吸引していく術を知っている。シェルブールの雨傘ではステージにたどり着いて上を見上げるという単純な動作でも物語を豊かに紡ぎ出し、見えないはずの雨をその場にいる全員の心に降り注がせていた。

 

大我さん、じゃなくてギイさん、初めまして。この4ヶ月ずっと、お会いできるのを心待ちにしていました。

 

ギイを生きる大我さんはとにかく音楽そのものだった。

全編歌で進んでいく作品な時点で多少は想像できていたけれど、始まって早々に大我さんが音楽になり得る方法は歌に限らずダンスでもあると伝えてくれた構成は圧巻としか言いようがなかった。同じ空間を共にしながら、一瞬一瞬の神経の研ぎ澄まされ方に心を奪ってもらえるのって本当にこの上ない贅沢。

大我さんのことを大好きでやまない理由のひとつに”極と極を和える能力が高い”というのがある。大きな違いを宿す要素を、それぞれの本質を変えることなく、でもお互いを引き立て合うように並べたり寄り添わせたりして、バランスを生み出すところ。性質を変える”混ぜる”より、違う個性を活かしたまま新たなひとつとして提示する”和える”。布オタクとして言うなら”撚り合わせる”も合う。

今回ギイとしてジュヌヴィエーヴとの出会いの直後に舞っていた大我さんは、しなやかでありながら強靭な芯を持ち、壊れそうな繊細さを纏いながらも澱みなく滑らかであり、美しく華麗でありながら逞しく無骨だった。

しかもこの対比による美しさは大我さんがコートを着る演出のおかげでさらに引き立っているものでもあって。ダンスの緩急の鋭さは当然エネルギーの消費と比例しているから、直後からつなぎのお着替えも経てコートを纏う大我さんはしばらくずっと汗だく。美しい旋律や恋の初めの無邪気な表情が可憐であればあるほど、体力を削っている証の汗とはギャップを生んで引き立てあっていく。そしてひとつひとつの動きに込めた熱がお顔に滲むことで、大我さんが表現に込める命をより強く感じる時間にもなる。これは全体的に言葉数が音楽に縛られている作品だったからこそ、より感覚を研ぎ澄ませて受け取れた景色かもしれない。

一方で2幕最初の戦地で舞う方の大我さんは対比の規模を広げていて、1幕の幸せとときめきを溢れさせるダンスと対になる、戦地での苦悩と恐怖に振り切れた舞を見せていた。刈り上げをしっかり出しながら(大我さんの”かっこよさ”が一際好きなのでシーンの苦しさは受け取りつつ、キスシーン並みにときめき倒してたのはここだけの話)数十分前までとろけそうな笑顔や少年のような表情を見せていたひととは思えない、精悍な顔つきで十字架をも背負っていた大我さん。ずっと幸せな役もいつかやって欲しいのに、やっぱり絶望の表現は大我さんの専売特許で、あの闇の美しさに抗う心は持ち合わせていないことを再確認した。

大我さんはミュージカルのことを毎年自分に課している「本物になるための試練の場」だと教えてくれるけど、今年の試練はいかに"音楽と溶け合ってひとつになるか"ということではないかとこのコンテンポラリーダンスのシーンでわたしは一番思った。もちろん全編歌で進んでいくミュージカルであることも"音楽とひとつに"ならなければいけない理由。でも真逆の情景や心情の描写を余白の多いダンスという表現で託されていた大我さんが一番、音楽を全身に宿していたと思う。そして"主演"という大役もわかりやすく全うしていた場面だと思う。パンフで「テクニックを身につけた上で爆発力を持ちたい」と言っていたのを達成していたのもこのダンスだった気がするし、SixTONESでいる時には観られない、ミュージカルの場でだけ極められる大我さんの表現を新しい次元で浴びた感覚がした。

 

 

ミュージカル俳優の大我さんを目の当たりにするのが2作品目だったわたしにとって、ニュージーズとシェルブールの雨傘を比較して、特に1番の共通項である大我さんを見つめながら進化や違いを感じることは自然な流れだった。さらに今回は元々フランスと縁深くなれるように頑張ってきていたからこそ、多少馴染みのある文化と作品を目の前のミュージカルと対比させて感じとるという経験もできた。

例えばミュージカルと映画は別物だったニュージーズとは違って、今回のシェルブールの雨傘はほとんど忠実に映画の世界が舞台上に広げられていた。さらに音楽でセリフが紡がれることで時間までもが映画と同じ進み方をするように強要されていて。これは同一の物語の表現媒体が変わる状況において、稀に見る制限の厳しさだと思う。でもだからこそ、違う部分がそれぞれの表現方法の特性をくっきりと縁取っていて、それはとても新鮮で面白い気づきの連続に繋がった。

 

まず、場面転換が意外とはっきりしている映画に対して、舞台では曲と曲の流れがより滑らかでシームレスなところで両者の違いは実感できた。舞台装置も滑るように並行移動するのに合わせて、本当に一瞬も音楽が奏でられていない瞬間がなく、それをしかも生演奏の臨場感で聴けるというのは本当に特別な作品であることの証明だったと思う。そして場面と場面、心情と心情が映画よりも地続きで繋がっている印象を与えるミュージカルだったからこそ、登場人物たちがお互いに与える影響や、繋がってるはずなのにすれ違っていく想いのもどかしさがさらに鮮やかに伝わってきた。これはきっと収録されたミュージカルを映像で観るのでも体験できない、会場で観客も登場人物たちと同じ空気を共有するからこそ味わえた感覚でもあると思う。

 

具体的に映画と違った描写に触れていくと 例えばジュヌヴィエーヴとのデートの前にお家に帰ってきたギイのシーン。映画の画角ではギイがウロウロするだけで落ち着きのなさはかなり表現できるけれど、広い舞台では映画と同じ時間軸で歩き回るだけではおばさんが「落ち着きなさい」とまで言う説得力が出しにくい。それゆえのパンを勢いよく食べ過ぎてむせる仕草なのかなと、「えっっっ!ケホケホしてるっっっ!!!かわいいっっっ!!!ゆっくり食べてっっっ!!!」というオタク人格を抑え込みながら(余計な情報を入れるな)見つめていた。あのディテールは演出として存在したのか、大我さんと福田さんがお芝居していく中で見つけたやり方なのかはぜひ知りたいところ。

ちなみに本来ミュージカル観劇中には潜ませておきたいオタク人格が顔を出してしまった言い訳をするなら、それはエリーズおばさんといる時の大我さんのお顔があまりにも無邪気だったせい(せい)。誰と、どこで、(そしてこの物語では特に大きな変化を生む)いつ、言葉を紡ぎ動きを見せるギイなのか、的確に理解して演じ分けることで本当にいろんなお顔を魅せる大我さんがシェルブールの雨傘にはいたと思う。エリーズおばさんといる時のギイはキラキラと恋に染まっている時もどんより怪我も抱えて沈んでる時も、素直で裏表がなくて常に”少年”だった。表現者大我さんの力量を思い切り浴びれたところ。

 

話を戻して。もうひとつ、画角の広さが映画とミュージカルで違いを生んだシーンは劇場でギイとジュヌヴィエーヴがカルメンを観るところ。映画では仕立ての間に合わなかったドレスを留める針で指を痛めるギイがいるけれど、指先の描写はきっと最後列の観客には届かない。見えている範囲が広いからこそ、あの場面のチャーミングなところは隣のお客さんがノリノリになってしまうというクスッと笑える演出になったのかななんて考えている。ちなみにこのシーンはコートとバッグを丁寧に扱う大我さんが何回か拝見できるのでファッションオタク的にはそこが嬉しすぎる凝視ポイント。両手でハンドバッグ差し出してくれるのとか本当に大好き。空間全てを意識しているはずの構成に従いながら、自分の指先まで見にきている人のことも絶対に知っている大我さん。出征決定後はジュヌヴィエーヴを抱きしめ返すのを躊躇していた手も、同じく指先まで心を宿す大我さん。

少し脱線すると、これは大我さんがCHEERで一番意識していることとして、「お芝居中の立ち位置が正式に決まってない瞬間がいっぱいある」ことやカーテンコールの最後の瞬間まで気を抜かずに「最初から最後まで役を背負う責任というのを忘れないようにしています」と言っていたこととも通じると思う。あまり見ているその瞬間は考えられていなかったけれど、確かにカーテンコールの大我さんは本当にずっとお顔をこちらに見せながら行ってくれるし、特に中日であれば”大我さんとして”喋る時間は作らない。それでいてオーケストラの皆さんが作る盛り上がりをちょっとロックというかヒップホップみたいなノリで煽ってジャンプしてギイじゃない姿を見せてくれるのも大好きな大我さんだなと思うけど。ニュージーズのカテコでバク転もどきを毎回やってくれた時もそうだった。前者がミュージカル俳優大我さんで後者がアイドル大我さんという感じ。

 

表現媒体の違いに限らず、演者が違うこと、それから何より表現者の国と文化が違うことで生まれていた映画とミュージカルの違いも見ていて楽しかった。

カトリーヌ・ドヌーヴのジュヌヴィエーヴは個人的にあざといの元祖と言っても良い印象で、キスシーンも結構主導権を握っていると思う。「お化粧のここ直さなきゃ」って言いながらほっぺたを差し出してるところなんてまさに。でも朝月さんと大我さんのジュヌヴィエーヴとギイはもっとピュアで可愛らしい感じのジュヌヴィエーヴといたずらっ子のギイという感じで。瞳の光の量を増やして子供みたいな輝きを見せてから大きくてかっこいい手でそっとお顔を包んでいく大我さんは一瞬の切り替えも作用して本当にずるかった。キスシーンを好きな演者の最高の表現の場だと思っているタイプなので、ジャックとキャサリンのきゅるりんキラキラキスシーンも、束の間の萬木先生と一花ちゃんの透明度の高いキスシーンも大好きだけど、今回はやっぱりお茶目さを大人度でくるんでいくギイとジュヌヴィエーヴのキスシーンだった気がしていて。新しいレパートリーをまた見せてもらった気持ちをくれる、本当に本当に素敵な大我さんだった。

そしてギイとジュヌヴィエーヴ以外で、”日本で”説得力のあるキャラクターになっていると思ったのはエムリ夫人。映画を観ていた時にもはやママが自分でカサール狙ってませんかこれって言いたくなっていたわたし(フランス人もそう思うのかはちょっと今度聞いてみたいところ)。でも春野さんのエムリ夫人はちゃんとお母さんで、映画より全体的に良い人で、我が道を行くストレートな人らしさがあったのは「ボンジュール」って言われて「ボンソワー」って返すところくらいだった(しかもここも郵便屋さんがやっちまったって演技を入れてくれるからマイルドになっていた)。映画のママが一番劇的な宝石商に行くシーンも、美容院に行きたがることへのジュヌヴィエーヴの呆れを強めることで”ママったら”感が凝縮されていてジュヌヴィエーヴが映画より少し自立していたし、帰りかけるママを2回止める動きもあってしっかり者だったし、ママ本人のわたしたち途方に暮れてるんです!って演技もオーバー”すぎ”なくて素敵だった。むしろミュージカルは宝石商の方が買取断固拒否のドラマチックな感じで、そことのバランスもママをどう観るかの変化につながったのかもしれない。

あと大我さんはもちろん特別枠として、今回生でお芝居を観られて良かったと心底思ったのは圧倒的に春野さんだったし、春野さんが演じていたおかげで、エムリ夫人というキャラクターの見方も変えてもらった感覚。音響が良いとは言えない席の時や全体的に演者さんたちのお疲れを感じる日にもおひとりだけ一瞬たりともブレなかったのが本当に本当に圧巻だった。

 

国と文化の違いから派生して、言語の違いによって避けられない変化はジュヌヴィエーヴとギイの間の愛の言葉で一番際立っていたと思う。

映画だと「je t’aime(愛してる)」、今回のミュージカルだと「好きよ」を明らかに言う回数が多かったジュヌヴィエーヴ。それに対して、元々映画でも一番ストレートな「je t’aime」は意外と言わないギイが代わりに頻繁に使うのは「mon amour(愛しの人)」だと思うんだけど(真面目に数える元気はなかったのでざっくりの印象)、「je t’aime」は「好きよ」でほぼ3音同士になるのに対して、「mon amour」と「愛しの人」はどうしたって同じ音数にはならない。必然的に大我さんのギイがわかりやすい愛の言葉を紡ぐ瞬間は映画よりさらに少なかったと思う。そしてだからこそ、目線や仕草で愛しい気持ちを伝えることが必要不可欠で、それが瞳に気持ちを宿らせることに長けた大我さんにぴったりな役だと一番思える理由かもしれない。ゲネの写真を見た時点でこういうツイートをわたしはしてたけど、

本当に大我さんは見えないものなはずの感情を音や視線にのせる技術が高すぎて、受け取り手は溶かされる以外の選択肢がない。

それからこのジュヌヴィエーヴとギイの間の言葉の質の違いは前半に愛に溺れているジュヌヴィエーヴと後半に愛に溺れているギイっていう対比を際立たせる役割もあると思った。1幕でジュヌヴィエーヴが直接的な言葉で好意を伝えて、どちらかと言えばジュヌヴィエーヴの方が好きな気持ちが強いように見えれば見えるほど、後半に未練が長く残って愛が深いように見えるギイとのすれ違いが映える。これは映画より振り切れてた2幕の大我さんのボロボロにやさぐれた状態を見てより強く感じたところ。脚をかなりわかりやすく引き摺ることでビジュアルを大きくは変えられない舞台でも時間経過をはっきりと示しつつ、大我さんはギイのジュヌヴィエーヴへの愛情の大きさを"反動"という対比で美しく表現していた。自由の効かなくなった脚を叩く場面はどうしてもジャックの大我さんとして観た悔しがるお芝居も思い出してしまって、余計に心がぎゅっとなった。

ちなみにこの2幕の自暴自棄になるシーン、結構いろんな雑誌で新境地になる部分だとは言っていた大我さんだったけど、CLASSYでだけ「自暴自棄になってワンナイトラブや酒に溺れるシーンもある役。ファンの方には免疫がないかもしれないけど12月には29歳になる今やらないと30代からの仕事の内容にも関わってくると思うのでいい機会をいただいたと思ってます。」って表現で言っていたのがわたしはすごく好きで。「免疫」ってある種オタク語彙じゃないかなという言葉をマイルドにすることはあっても0から文字にする誌面ってなかなかないと思う。だから大我さんのオタク理解度というか、本当にプロのアイドル18年目…ってひれふせたのがここだった。しかも「ミュージカルをあまり観たことがない方にはハードルが高いと思うけど、アイドルの僕がやることでそのハードルが低くなればいいなあと。」という言葉も大我さんは続けるから好きは深まる一方。自分のファンには常に”初めてミュージカルに触れる人”がいる想定で作品を届けようとしてくれるのは、大我さんが”アイドルを基盤に”ミュージカルも大事にするひとだからで、それが大好きなんだと心から思う時間。パンフでSixTONESのツアーTを着てリーボックのスウェットを履いて稽古を受けていたり、逆にSixTONESの振り入れの時にニュージーズのTシャツを着ていた大我さんの、"両方の世界"の生き方が大好き。

 

言語の話に戻ると、フランス語を日本語にしなくてはいけないからこそものすごく難度が上がった演目だったことも終始感じていた。

特に難しさを感じたのは本当は「なんで泣いているの」と言いたかったであろう場面たち。フランス語だと「tu pleures ? (君は泣いているの?)とほぼ3音で言えてしまうところは「なみだ〜」としか歌うことができなくて、さ、さすがに苦しい〜!と思ってしまったセリフだった。英語と比べてもフランス語って本当にサイレントレターも一音に入る意味も多すぎる(ただの愚痴は慎みましょう)

あと大我さんが歌っていて一番低いし出しにくい音では…?と思った出征シーンの「見つめないで」の「い」の音。映画だと「Ne me regarde pas」の regarde と pas の間の休符で、全然辛そうじゃなくて、映画を観直した時に頭を抱えた箇所だった。映画だと囁きが許されることでも割とずっと思ってたことではあるけど、大我さんあんなに頑張ってたのにずるい!!!ってニーノ・カステルヌオーヴォに一番嫉妬した部分かもしれない。このミュージカルで一番好きだった衣装がこの出征の時のスーツだったから(スタイルがあまりにも良すぎたので今すぐ戦地じゃなくてランウェイに出向いて欲しかった)余計に邪念が生まれやすい。

でもこれは逆に大我さんが”歌の難度”という意味では原作をも凌駕するような挑戦を乗り越えていたということでもあって。本当にとってもとっても誇らしくて大好きなところ。

パンフでも「僕は歌い上げる楽曲に出会うことが多くて語るように歌う方達への憧れがあったので両方できるようになって自分にできる作品や役の幅を広げていきたいなと思っています」と大我さんは言っていて、ポジティブな挑戦者である証明みたいな言葉選びで大好きだった。普段大我さんの歌の本領だと思い込んでる瞬間が「か~るめ~ん」以降極端に少ないことで揺れてた心も、パンフのこれを読んだらすっかり落ち着いて、本当に信頼が深まってしまった。

 

違う文化や歴史的背景を表現する難しさを感じた場面はあといくつか。

まずひとつはギイが徴兵されるときに背景にふわふわと降ってきた「兵役」「徴兵制」「アルジェリア戦争」の文字。現代の日本人がなかなか触れることのないアルジェリア戦争の文脈をわかりやすくする試みだったのかもしれないけど、なかなかシュールな演出だったと思う笑 まああそこにアルジェリア戦争がどのような戦争だったかと解説文を載せるわけにもいかないからギリギリの策だったのかもしれないけど。この物語において個人にはどうにもできない情勢がどれだけの影響を及ぼしているかと強調することには成功していたと思う。

もうひとつはカサールがエムリ家に招待されてガレット・デ・ロワを食べるシーン。テーブルの上が見えづらい舞台をサポートするために食事のイラストが浮かぶのはとてもいい演出だと思ったけれど、結局あれがどういう歴史のあるお菓子なのかわからなければ、急に大人3人が王冠を被せたり被ったりする流れ(言い方)になるのかは全くわからなかったと思う。気のせいかもしれないけどあのシーンは映画よりも短い気がしたし。

たまたまフランス語を学ぶ過程でこの映画の背景を解説してもらったことがあったり、実際にガレット・デ・ロワを食べる時期をフランスで過ごしてどれだけ今も国民的な行事なのかを体感できていたりしたからわかったけれど、そんなことがなければわたしは置いていかれていたシーンだと思ったので、”物語を理解する”という行為はどれだけの情報を事前に共有できているかが作用するものなのかを痛感する場面だった。そして映画でカトリーヌ・ドヌーヴがものすごい輝きを放つ王冠を被った場面の再現度は照明も相まってすごく高かったので、これがスッと伝わらなさそうなのは余計にもったいない…!と思ったりもした。

この両場面についてわかりやすく解説していて、なんならきっと普通のフランス人が見るよりも深い考察的な視点を持てるように導いてくれるのはTwitterでも結構出回っていたこの論文だったので、もしまだお読みでない人がいたらかなりおすすめ。観劇後に読んでも記憶を反芻しながら想いを深めるのにとても良いと思う。

 

原作映画と今回の日本版シェルブールの雨傘の”違い”を軸に感想を綴ってきたけど、絶対に忘れてはいけない、今回の肝とも言える最大の”違い”はラストシーンの演出。

映画ではもう過去は振り切ってちゃんと新しい幸せを手に入れたギイが描かれているのにも関わらず、今回の大我さんのギイは涙に濡れたラストを迎えていた。悲恋が似合ってしまうひとなのはファンとしてどんな演出家さんたちよりもわかってるつもりだけど、今回は途中悲しくても最後報われる役!と思って観に行っていたので初観劇では本当に心が砕けてしまった。しかも照明にきらめくお顔を見たことでボロボロ涙をこぼす大我さんに気づいてしまったから余計に胸は締め付けられて。言葉での表現は少なかったかもしれないけど、本当に本当に深くジュヌヴィエーヴを愛し、その分深い傷も負って、新しい幸せの影にその愛と傷もずっと抱えていくギイに変身していく変遷を描く物語だと、大我さんの演じるラストシーンはそんな新しい解釈をくれた。

そしてダンスのシーンと同じくらい、新しい次元に達した大我さんの表現力を感じたのもこのラストだった。ありがたいことにソワレの翌日マチネを観るという一時帰国期間内で限りなく贅沢な観劇をしたので、記憶が余韻を味わいだす前に細部をより鮮明に記憶することができたし、本当に1日単位、1公演単位で変化があることを体感できていて。涙をこぼすかこぼさないかの違いを連続した公演の間にも作っていた大我さんを目の当たりにしたときには本当に心が震えた。CHEERで「1日単位で出来が違うことが生の面白さだし、だから僕はミュージカルや舞台が好きなんですよね」と話していた大我さんを自分の目に焼き付けられた幸せを噛み締めたし、この日々挑戦を重ねる姿勢は特に最近の大我さんに一貫してることだなとも思ったり。ブロードウェイヒッツの公演期間中、毎日違う表現を試みていた大我さんも思い出して、それを今年の主演ミュージカルでも成し遂げていた大我さんがさらにこの先どんな進化を魅せていくのか、本当にワクワクして仕方ない。

 

 

今期のCHEERの取材で(そろそろシェルブール期のバイブルはCHEERだったことが伝わっているでしょうか)大我さんは「最終的には主演兼演出で自分のオリジナル作品を作れたらすごく幸せでしょうね。」と初めて具体的に言葉にしていた。

音楽表現から視覚的表現から演技のまで夢が広がり続けるし、今回もパンフで「自分の自信となる作品にしたい」と言っていたように、自分の超えてきた壁への自信がとてもよく備わってる大我さんがわたしは本当に大好きで。加えて「有言実行」という座右の銘に恥じない生き方を大我さん以上にしているひとをわたしは本当に知らない。だからこれからも広がり続けるし深まり続ける大我さんの表現の世界を追いかけ続けたいと思うし、今「最終的」と大我さんが見つめる目標に辿り着く瞬間も、いつか目の当たりにできたらこれ以上なく幸せだと思う。

 

 

 

シェルブールの雨傘が情報解禁になった日、わたしは久しぶりに自分の目の前の画面に映る文字を疑った。

やっぱり舞台を毎年やるって絶対に当たり前のことじゃないし、期待しすぎない方が嬉しさが倍増するってわたしたちの要がいつも言ってくれてるし、もう楽しみでしかない主演映画のお知らせはあるし。何よりこの先髪型を自由にできそうなぶろぐを読んだばかりだし。

そう思っていた矢先に現れた『シェルブールの雨傘』の文字。公式にフランス国旗に囲まれる「京本大我」の文字。

都合が良すぎて本当に夢かと思った。ちょうど精神的な限界を迎えて帰国も頭を掠めていた時期だったので余計に出来すぎた偶然だと思った。でも嘘でも幻でもドッキリでもなく、大我さんは本当にフランスの名作を主演として背負ってくれることになっていて、わたしはせめて冬まではその作品の地で踏ん張ってから、会いに帰りたいと思えるようになった。ここで頑張ってるのは間違いじゃないかもしれないって、思える理由をわたしが一方的に好きなだけの大我さんにまでもらってしまっていた。それは本当に本当に、大きな心の支えだった。片道3時間半かけていそいそとシェルブールに出向く元気までもらった。

 

発表の日に毎年恒例にしてくれている(ただしこれも絶対に当たり前じゃないって愛と感謝をことあるごとに伝えておきたい"恒例")インスタライブで大我さんは

「俺がやらないわけないでしょ、と。俺の大事にしてるミュージカルを一年に一回はやっぱりトライさせていただくって言うのはこう俺の中では決めてますんで、もちろんスケジュールの兼ね合いで叶わない年も出てくるかもしれませんが、もちろん今年もやらせていただきますよと」

軽やかに、でも真摯に言葉を紡いでくれた。もちろん期待しすぎないわたしたちの太陽のマインドも持ちつつ、同時に、これからも大我さんのこの言葉たちも毎年毎年信じ続けたい。

 

大我さん、今年もまた「本物」への「試練」を鮮やかに美しく超える姿を共有してくれてありがとう。

そして改めて、シェルブールの雨傘全45公演完走、おめでとうございます!

今日も迷うことなく大好きです。

 

 

 

 

 

 

 

2023.12.17 aim