Chasing Diamonds

長文考察愛だだ漏れ系aimのぶろぐ。140字じゃ足りない愛は原石を追いかけて。

Dear diary, Forever NEWSIES。

 

ニュージーズ閉幕から1ヶ月。

私生活は謎に、SixTONESごとは幸せに忙しくて、あっという間にこんなに時間が経ってしまったけど、ニュージーズという作品に想いを寄せ始めてからの2年、そしてその中でも特に濃かった10月9日から11月17日までの記憶は絶対に文字に閉じ込めておきたい。

その気持ちがひたすらに詰め込まれた日記です。

 

 

 

 

 

Dear diary,

 

 

 

 

 

 

2020年は行くことが決まっていたライブが6本中止になった。

 

1年間の最多ライブ本数が14な私にとってその数字はとても大きい。だからどれもそれなりにショックだったけど、ニュージーズの中止ほど苦しかった中止はなかった。

自分の人生で体感した”何かができなくなる”という状況の中で、記憶にある限り一番辛かった。たぶん過去一の失恋をした時と同じくらい 1日中泣いて何も手につかなかった。

 

でも同じくらい1日中泣いた記録は7月25日に更新された。

 

SixTONESANNのマスカララジオドラマをかみしめてた明け方、突如舞い込んできたニュース。それを受けてぼろぼろ泣きながらひたすらツイートし続けた1時間。

あの短時間で自分でも引くほど泣いた。本当に。でもそれは中止の時にまだ大我さんを好きになって半年だった私が、毎日毎日抱え切れないほどの”好き”を積み重ねた1年3ヶ月の結晶みたいな涙だったんだと思う。

そこから日中ずっとそわそわしながら大我さんからの第一報を待っていたら、飛び込んできたのはまさかのソロインスタライブのお知らせだった。

 

散々言ってきてるけど、大我さんの”表現力”が隅から隅まで大好きだ。

 

中止発表の時にはまだ個人ぶろぐがなかった。それでもその週末に、6週に一度のぶろぐの順番が回ってくる運命的な巡り合わせがあったから、大我さんはそこまで待つことだってできた。普通に考えて、第一報はそこだと思ってた。

でも大我さんが最初に発信してくれたのはISLAND TVでのImitation Rain弾き語りだった。

j-island.net

あの時点で限りなく閉じていて言葉を必要としない環境を選んで寄り添ってくれたこと(そして結果的にそれがぶろぐやインスタに載せるよりずっと長く残る形になったこと)が大好きだった。

その時の表現力を、2021年の上演が決まったときは真逆の場所を選ぶことで大我さんは見せてくれた。インスタライブという一番開けているしリアルタイムで同じ時間を共有できる場所を新たなニュージーズの始まりに選んでくれたこと、それが本当に本当に大好きで、結局この日も泣き明かした。

 

 

そこから開幕までもたくさんの雑誌で”2021年の”ニュージーズと向き合う大我さんにたくさんたくさん触れて、並行して2020年のニュージーズと向き合う大我さんにも何度も会いに戻った。

ニュージーズ単独取材があったのは CHEER、日経エンタテインメント、ミュージカル、QLAP、銀座丸の内Walker、CanCam週刊朝日、SODA、ディズニーファン、ザ・テレビジョンShow、Stage navi、Stage fan、BEST STAGE、婦人公論、act guide、TVfanCROSS、スポーツ報知、J Movie Magazine、STORY、anan、女性セブン、BARFOUT!。22誌。そのうち5誌は表紙。

しかも合同取材はほとんどなくて、どの雑誌でも少しずつ違った角度からニュージーズと向き合う大我さんを見せてもらえたからものすごい情報量だった。

それを受け取った記録として、私は一体何文字綴って何語喋ったのだろう(遠い目)

aimingforsixtomatones.hatenablog.com

 

 

 

そうして迎えた自分の初めてのニュージーズ観劇日 10月20日

大事な思い入れのあるお洋服を下ろす日と決めたり、ありとあらゆるピカピカになる準備をしたり、前日から”浮き足立つとはこのこと”って様子だったから、家を出る時に笑顔でかけられた言葉は「正気で帰ってくるんだよ」だった()

 

 

音楽を真面目に好きになってから9年弱くらい。たぶん50本くらいのライブに行ったことがあって。だからさすがに最近は”1音目から泣く”というライブ初心者の自分は身を潜めていた。

 

でも待ちに待ちに待ちに待ったあの瞬間は、”ライブ”という空間に慣れるまでの感覚と同じだった。

あの、まだ出演者の姿も見えないのに、聞こえる一音目から全身の血が騒ぐ感覚と涙が滲む気配。

 

Overtureのトランペットの音からもうダメだった。

 

あぁ私の好きなひとと好きな音楽はこの同じ空間に存在するし生きてるんだって喜びをリアルに身体で感じる、何にも代え難い”生”の感覚。

それに加えて、この場所のこの音の中を大我さんはこの1ヶ月ちょっと、やっとやっと生きられるんだって、生きてるんだって、目の当たりにできる感動。

幕が上がり始めてセットが前に出てきて、クラッチーは足が悪いはずだから上にいるのがジャックだよな…って身構えてたら動き出す姿。

 

そこから先の感情はもう一瞬ごとにピークを迎えては身体に取り込まれていくようなかけがえのない時間だった。

距離感や心持ちや自分の中の解像度に変化はあれど、それはその後の10月29日も11月16日も全く同じで、閉じ込めておきたい記憶がたくさんある。

 

ニュージーズを知って観に行きたいと思った一番の理由は紛れもなく大我さんだったけど、一人一人のキャラクターが素晴らしく魅力的に演じられてて、隅から隅まで大好きになった作品だった。そしてひとつの作品にこんなにも想いを寄せたことも、短期間で繰り返し観に行った経験もどちらも初めてだったから、キャラクターごとの解像度が上がりやすかった感覚がある。

だからここには時系列というよりキャラクターごとの観点を軸に感想を残しておく。

 

 

まずはクラッチー。

 

一昨年大我さんと知り合って以降の広大くんのストーリーのめろ具合とか、ジングルに出てくれた時の雰囲気とか、良い距離感の仲良しなのは知ってたけど、正直広大くんと大我さんのハモリがあんなに気持ち良いなんて想像してなくて。もはや京ジェに感じるのに近いほどの声の重なりの心地よさを最初のナンバーから感じてドキドキが止まらなかった。

そしてそれが”ジャックとクラッチー”の唯一無二の関係性を冒頭から明確に提示するために、二人がした努力の結果なのかと思うと余計に胸熱だった。2人の歌声は明らかに“相手を想う”ための音色だった。

大我さんも一番緊張したのがこのシーンだと言っていたけど、3回観させてもらって一番良い意味でリラックスしていった印象があったのはこの最初の Santa Fe だったから、それも二人の良い関係性が育っていった証明みたいで大好き。

 

アメリカツアー版で追加されたらしい(からサントラに入ってないの悲しすぎる)クラッチーのソロナンバーも大好きで。まずあれだけジャックを呼び続けながら捕まえられてしまったのに、独房の中からジャックに最初に呼びかける言葉が「役立たずでごめん」なクラッチーがあまりにも良い子すぎて泣いた。自分の心の汚れを感じた(そこ)元々の曲が感動的要素しかない構成だけど、それをあのよく響く声で歌う広大くんのパワーに圧倒されながら包み込まれたし、もっともっと歌声を聴きたかったなと思った。

 

あと書いておかなきゃいけないのは一体全体足首の角度どうなってたのクラッチーってこと…笑 ブロードウェイ版も映画版も観たけどそれと比べても明らかに異常な角度で。2列目から観た日にも本当に見えなくなる最後の瞬間まで足を引きずるクラッチーを見て、徹底的なプロ意識を感じて尊敬した。

きょも担の親友が一昨年、ニュージーズの予習のつもりで観に行ったナルトですっかり広大くんを大好きになって帰ってきた気持ちがわかったし、もっとたくさん動けて歌う広大くんをいつか観てみたいと思った。

 

 

キャサリン

 

去年の製作発表会見から素敵さを確信していた咲妃さん。

もうとにかくめっっっっっっちゃくちゃ可愛かったっっっっっっ…!(息切れ)しかもあんな可憐で可愛いお姿なのに、キャサリンは簡単には屈しないし一人でニュージーズの真ん中に立てちゃうようなかっこいい女の子で。

繊細で美しいまま強くしなやかであることに特別な憧れがあって大我さんを好きでいる身として、ゆうみさんの演じるキャサリンは大好きになる要素しかなかった。

まず去年の時点でどんな方か気になって”ちぎみゆ”のゆうみさんに外野からそっと触れていたから、お話しされてるかわい〜い声の印象の方が強くて。あのかっこいいキャサリンを凛とした歌声で纏うゆうみさんには最初からギャップ萌えしていた。

 

そしてキャサリンというキャラクターの、あの時代に働こうという意思、普段は住む世界がいろんな意味で全く違う男の子たちの中に一人飛び込む勇気、彼らを鼓舞して真ん中でヒールでタップまでしちゃう勇ましさ、いくら血縁の判断とはいえブラックリストに入れられてからもめげてない感が半端ない強さ。全部が好きだった。

しかもそれを演じるのがゆうみさんだから、全部が可憐さも纏ったまま表現されていて本当に素敵だった。セリフがないところの表情とか、真っ暗な中でもジャックにもらった似顔絵をぎゅっと抱きしめるキャサリンを演じ切るところとか(奮発して買った双眼鏡ありがとう)、そもそもあんな似てる肖像画を巨大に描かれて超美人なゆうみさんの美貌とか、細部まで宿るゆうみさんの空気が、キャサリンの強さが”お転婆”にならないバランスを保っていて絶妙だったと思う。

 

そして何より、大我さんと並んだ時のあのきゅるきゅるのキラッキラの空気といったら…!ニュージーズといるジャックの大我さんは紛れもなく下町の孤児の新聞売りだったけど、キャサリンといるジャックはどうしても高貴な輝きが相乗効果で溢れ出てしまっていて、もう好きすぎてなんだかよくわからなくなって最終的な感情は"嬉しい"だった。だって大我さんとあんなに対等にキラキラできる人、滅多にいない…

ドキドキワクワクして待ち構えていたキスシーンは「あんたなんて!」「お前なんか!」「もう!」って言い合ってるうちに何故か勢いでキスする流れがもうディズニーの定番すぎて、ディズニー育ちとして大好きでしかなかった。そこでー?!ってなるのまで込みで楽しい馴染みのやつに満面の笑みになった。”腕ぶん回すキャサリンが可愛い”という情報は最初から耳にしていたので3回とも凝視してちょっとずつ変化するのを観れたのも楽しかった。

 

でもやっぱりたまらなく大好きだったのは「あなたはもう一枚エースを持ってるわ!わたしよ!」って言えるキャサリン。好きな人との障壁になる可能性の高い自分の血を、こうなったら利用してやろうじゃないのって心意気で好きな人と一緒にいる強さが本当に好き。自信満々ってわけにはいかないけどそれくらい好きなんだもん言っちゃえ!って心の揺れが見えるゆうみさんの演じ方も大好きだった。「わたしがあなたの切り札よ!」って大好きな人に言えるくらいのしなやかな強さ、憧れでしかない。

 

またいつか大我さんとゆうみさんが一緒に歌うところを観たいし、できればお芝居もまたしてほしいし、大我さんとでなくてもゆうみさんの他の役もたくさん観てみたいなあって大好きなったのでその始まりがキャサリンで本当によかった。

 

 

デイヴィとレス。

 

初見での感想が「デイヴィこそストライキ成功の立役者じゃん!デイヴィがいなかったらジャック100%逃亡してたじゃん!でもそのデイヴィもレスがいなかったら無理じゃん!主役レスじゃん?!(迷子)」だったほど。デイヴィもレスくんたちも想像以上の活躍ぶりで圧巻だった。

幸運なことに3回観てレスくんたち3人全員制覇できたから、ちょっとずつ違うレスを味わえたのも楽しかった。個人的推しレスは おめめくりくり 西田くん。

 

デイヴィのブレインなところと、信じる力が強い”世間知らずピュア”の力がいい感じにバランスが取れて愛嬌あるキャラクターになってたのは清史郎くんだからこそなのかなとも思ったり。すごい言葉数なのによく通る声はさすがだった。

デイヴィは29日のスト破りのところでびしゃびしゃに泣いてたのも印象的だったし、最後の「ジャック Santa Fe に行くの?」で歌う Santa Fe~~~ がものすごく気持ち良さそうで笑 大阪では全体的にそういうアドリブが少なくなっててちょっとだけ寂しかったから29日に見れてすごくよかった。

 

 

そしてニュージーズたち。

 

Twitterで紹介企画をやってくれていたりインスタライブをやってくれていたおかげで観に行く前からお顔と名前が一致している方が本当に多くて、見つけるのが楽しくて仕方なかった。メインキャスト以外にも”この人を見つけたい!”という意識を持って観たミュージカルは間違いなく初めて。

最初からお顔を見て名前まで分かったのはインスタライブとか日々のツイートのおかげでよく見ていた鯨井未呼斗さん、清水錬さん、高橋慈生さん、新井智貴さん、新原泰佑さん、吉田倭大さん、石川新太さん。

最初のお三方は特に、インスタライブをがっつり見させてもらってから観に行ってたから、裏エピソードたくさんしてくれた みことくんだ〜!めちゃくちゃ跳んでるの れんくんだ〜!くるくる回ってるのは じょうくんだな!お気に入りのグッとくるセリフはこれだな?!右きょも左きょもモーメント!ジャックJr.!って見つけたし、勝手に親近感湧いて何度も見つけてはにこにこしてた。あと”やたらと名前を出されるスペックス”の米澤賢人さんもまただ!って思うの楽しかった笑

 

初回で お顔とお名前一致しないけどとっても素敵では!?どなた!?って圧倒的になったのはブルックリンのスポット・コンロン、扇国遼さん。声がはちゃめちゃに好きだった…そもそも”ブルックリンのリーダー”ってポジションがめちゃくちゃかっこいいのに歌がすごく好きで本当にかっこよかった。映画版もブロードウェイ版もスポットは”ちっちゃいのにすごい一目置かれてる奴”みたいなキャラだったけど、今回日本では正統派にかっこいい人選だったのめちゃくちゃ好きでありがとう小池先生となった(誰)間違いなくジャックに次ぐ推し。

 

あとはスト破りのシーン。セリフはない時も葛藤する3人の演技が本当に細かい感情の変遷を表してて、特に肉眼でステージ全体を見渡せた29日は視野が広いままスト破り側とジャックたち側を見比べられたから感動がすごかった。Seize the Day の Forever Newsies って歌詞は原曲にはないみたいなんだけど、大我さんが中止の時に合言葉にしてくれてた言葉だったから初めて聴いた時はボロボロ泣いた。去年から日本版用にあった歌詞なんだとしたらニュージーズの引き寄せる運命は本当にすごいなと思うし、今年から加えられた歌詞なんだったらそれも素敵すぎるなと思う。

 

同じ Seize the Day 中に STRIKE の文字を舞台上でペイントするところも大好き。6年前くらいにロンドンでREDというマーク・ロスコの舞台(日本でも小栗旬がやってたらしくて調べてびっくりした)を観て衝撃を受けてから”舞台上で1回1回リアルなものを使う”シーンにどうしようもなく惹かれるようになって。だから実際に絵の具が使われるシーンはめちゃくちゃワクワクしたし大好きだった。ブロードウェイ版の新聞の上で踊るのもすごく楽しそうだったけど、情勢的にも新聞は投げられないし、日本版をやる上で変えなきゃいけない振りだったのかなと思うから素敵なアレンジだったと思う。

 

ニュージーズたちには、あんなにたくさんの人がいても、同じ想いや葛藤を同じ時間共有したことってこんなにも力強く形になるんだなってずっと見せてもらってた感覚だった。自分の物理的な距離ももちろん影響してたと思うけど、特に東京前楽の29日のニュージーズのシーンはどれも一際熱量が高くて、Once and for all とか特に、とんでもないエネルギーを真正面から浴びた。こういう時代にこそ、生のステージや人が歌って踊って演じるエネルギーが人に与える希望って計り知れないんだなって、エンタメはやっぱり不要不急じゃなくて essential なんだって、心の底から思えた。

 

 

キャラクターに絞らなくても作品として好きなところはもちろんまだまだあって。

 

例えばメインキャラはほぼみんなソロ曲もしくは長いソロパート(しかもステージ上に一人の時間)があったのがめちゃくちゃ好きだった。もちろん主役は決まってるけど、最高峰のスキルを持った人たちが集まってるからこそできるストーリーの伝え方に感じて、どのシーンも楽しかった。

あとジャックがいるとどうしても本能的にジャックばかりを追ってしまうので(担当の性)目が足りない時間を少しでも減らしてもらえるのはありがたかった笑 特に King of New York のキャサリンとニュージーズだけのところは足りない目をどうにか補う一番のチャンスですごく好きだった。魚の真似してるアルバートとか、「思い通りになる女の子!」って歌うフィンチに顔を顰めるキャサリンまで見えたのは本当に笑顔になった。

 

あと逃せないのは大人勢の迫力。

特にメッダ様には抱かれたすぎてでジャックそこ代われの気持ちだった(とは)「メッダがついてる!」の安心感ったらない。お衣装もレースとかネックレスが綺麗に見える工夫が細かくて双眼鏡でがっっつり見て楽しんだ。

東京でも大阪でも、観客の一番のくすくすポイントが”めちゃくちゃ控えめに手に唾を吐くピュリツァー”だったのも大好き笑 あれは元から演出にあったのかすごく気になる笑

 

ステージの使い方として、オーケストラピットから演者が出てくるのも初めて観たのですごく好きだった。おかげで目の前で捕まるクラッチーとその叫びを耳にするジャックの表情を見れたことは一生忘れない。

きっとコロナのせいで客席を縦横無尽に、とは行かないからからこその計らいなんだろうけど、そうやって制約があっても作品のエネルギーを損なわず、できるだけ直接的に伝える工夫が多くて好きだった。流石に双眼鏡で見つめてた大我さんが急に視界から消えて上に上がっていったときはびっくりしたけど笑 ”どこの席でも楽しませる”気持ちに櫻井担としてどうしても弱い部分があるので、2階席の人もきっと素敵な景色だったであろう Santa Fe は素敵だなと思う。

 

 

 

そして。

大我さん。ジャック。ジャック・ケリー。

 

一言目の「どこ行くんだ?」を聞いた瞬間からカーテンコールまで、目に映っていたのは紛れもなくジャックだった。ずっとずっと会いたくて仕方なかった人。

ジャックは想像よりずっと頼り甲斐のあるリーダーで、想像よりずっと繊細で脆い人で、想像よりずっとロマンチックな人だった。

 

 

思っていたよりずっと頼り甲斐のあるリーダーだったジャック。

 

あの圧倒的なエネルギーを誇るニュージーズたちの真ん中にいることが自然に見えるジャックはとってもかっこよかった。決して自分から真ん中に立つわけでもないし、みんながどうやってジャックを信頼するようになったかの背景が語られるわけでもない。それでも”真ん中に立つのはこの人でなきゃ”って思わせてもらえる頼り甲斐と "personality" がずっと滲み出ていて、間違いなくストーリーの中心に立っていた。

同時に想像よりずっと繊細で脆い人でもあったけど、そういう弱さを持っていても、そして持っているからこそ、”真ん中でいなければならない”人だという運命的な空気を纏ったジャックが本当にかっこよかった。

 

それはもちろんジャックの物理的な身体の大きさも影響してて。特に2幕の衣装はシャツの素材が柔らかいおかげで身体のラインがずっとよく見えてしまってだめだった。私の心が。鍛えてることはもちろん知ってたし去年の本人も鍛えすぎだと思ってた(笑)時期の姿も目に焼き付いてるからそれより大丈夫だったはずなのに、このブログのメモにはちゃんと”2幕のジャック衣装(棺)”って書いてあった。非常にわかりやすい。

 

真面目な話に戻ると()ジャックをより頼り甲斐のあるリーダーとして見れたのは話し方も大きく影響してたと思う。

例えばピュリツァーに「妥結点だ」って返すところが印象的。シリアスな部分でも臆せずコミカルな言い回しができて、あのストーリーをエンタメにまで昇華してたところは頼れるジャック像を構成する要素だった。

しかも、大我さんが終わった後にジャックの話し方は「江戸っ子を意識してた」って言ってたけどそれは原作へのリスペクトとしても大正解で。英語を先に聞くとどうしても訳の違和感に気を取られるから、大千穐楽を終えてからようやくサントラを聴いたり映画を観たりしたんだけど、ジャックに限らず、登場人物たちの口調の違いが一番驚いたポイントだったくらい、英語だとこのストーリーにおいて”口調”はすごく大事なポイントだった。

ニュージーズたちはニューヨーク訛りや言葉遣いの悪さもあるけど、何よりちゃんとした教育を受けられていないことを証明する文法の間違った英語を使いまくっていて(顕著なのは主語がなんであれbeが全部isなところ)。だから都会に住んでいるからといって洗練されていたりイントネーションがフラットだったりするわけではなく、まさに「江戸っ子」的な都会っ子のイメージがぴったりな立ち位置だった。そこのニュアンスを特に語尾に宿らせていたおかげもあって、大我さんは確固たる逞しいジャック像を作っていたんだと思う。

 

でも逆に、そういうニュージーズたちに対してキャサリンとデイヴィはきちんと動詞の活用ができるって違いを日本版ではあえて省いたことで、今作は英語版より上品な作品になっていて、それは素敵な日本アレンジだったと思う。身分差や階級差を強く印象付ける役割を果たす英語の違いをなくすことは、言語の壁をあえて利用して、古い原作を時代に合わせてアップデートすることでもあった。そして言語の違いによって生まれるそういう変化も加味して小池先生は大我さんを選んでくれたんじゃないかと思った。

正直第一印象でJeremy Jordanの演じる役を大我さんって結びつけるのは相当難しい。でもジャックというキャラクターを深く理解することと、日本で、日本語でやることの意義を考えたときに、大我さんほど適任な人はいなかったと思うし、小池先生がそういう選択をしてくださったなら嬉しいなと本当に思う。

 

 

想像よりずっと繊細で脆い人だったジャック。

 

心がぐらんぐらんになった状態で幕間に放り込まれる Santa Fe に詰め込まれていたのは想像以上の弱さと脆さだった。畳みかける曲の展開もあるけど「まだ17なんだ」では必ず心の淵を感情が超えていく感覚があった。

弱さも全面に出すリーダーなのは最初から知っていたし期待してたけど、絶対的なリーダーであることも前半で強く感じていたから、まさかあんな逃亡寸前になるまで弱る役だとは思わなかった。

これはどこかのレビューでも読んだ記憶があるんだけど(なんだったか思い出せなくて申し訳ない)設定的にはものすごいヘタレに見えておかしくないのに、ジャックの苦しみや葛藤だけが凝縮された状態で伝わってきて応援したい気持ちにしかならなかったのは、大我さんが演じたジャックだったからだと思う。

逃げ出したくなるほどの苦しみは仲間への愛があるからこそ生まれるものだと、そこまでの立居振る舞いで伝えているから、あの逞しいのに”助けたくなるリーダー”は成立していた。振り返ってみると、堂々としてるようで、いろんなところでめちゃくちゃ貧乏ゆすりしてたジャックには心の不安定さが滲み出てた。それにスト破りのシーンでも、みんなを鼓舞する役目はほとんどデイヴィに任せていたけど、葛藤する3人に寄り添って説得する役目ならジャックは進んで引き受けていて。それは自分の弱さに自覚のあるリーダーだからこそ持てる優しさと頼もしさと引力だった。

 

大我さんのことが大好きな理由のひとつが”自分の弱さを共有してくれる”ところ、「一緒に」を魔法みたいに使ってくれるところなので、このジャックの姿はそこも彷彿とさせて より応援したくなった。大我さんがジャックを演じることの意味を一番象徴していたようにも思えて、本当に好きなところだった。

そしてジャックのことを”助けたくなるリーダー”だと捉えて演じていた大我さんの中にジェシーの姿も生きていたことは私の宝物な記憶。でもこれはまた別の話。

 

 

最後。想像よりずっとロマンチックな人だったジャック。

 

大我さんの言い方的に”恋愛はキャサリンリード”みたいなイメージを事前に持っていたから、”初対面で一目惚れしてドギマギしちゃうジャック”みたいなのを想像してたらキャサリンとの初対面は普通にチャラいナンパで笑ってしまった笑

 

でもジャックのキャサリン評が「綺麗で頭良くて自立してる」だったところと、唯一ジャックの発した”好き”が「頭の良い子って好きさ!」の時点で私のきゅんメーターは壊れた(超速)しずっと壊れたままだった。

個人的な信条として賢くあることを何よりも大事にしたくて。思いやりや愛が大事になってくるような場面でも、それをどうアウトプットするかは賢さが左右すると思うし、生まれ持つ勘や愛嬌は磨くことに限界があるけど、賢さは努力次第でどうにでもできる要素であるという意味で強く信じていて。

だから、そんな深い意図はなくても、最初の”好き”を”頭の良い子”に伝えるジャックがたまらなく好きだった。ああやって皮肉を切り返し合う能力があって、そう言ってくれるような人に会いたいなってシンプルに思ってしまうタイプの”好き”だった。そしてオタク人格はそれが大我さんの声で聴けることに心を溶かしてしまうからいけない。思い出すだけで好き(落ち着け)

 

そしてもちろん、一番ロマンチックだったのはキャサリンと結ばれるところのジャック。あそこでのロマンチック度は間違いなくアラン・メンケンマジックだけど、その魔法を生の歌声で紡いでいく大我さんとゆうみさんがもう本当に本当に生きたディズニープリンスとプリンセスで、顔は緩みに緩んだままずっと心臓がぎゅううううってなってた。

ディズニー育ちの少女漫画も好きなロマンチストな時点であそこはきゅんのキャパオーバーなのに、オタク人格が”大我さんが「きゅんとするデュエット」って言ってたところだね〜!!!”って耳元で叫んでくるからときめきに殺されるかと思った。あのど直球ロマンチックファンタジーナチュラルにきゅんとして、そのきゅんとした感触を共有もしてくれるアイドルの大我さんが大好きで大好きでどうしようかと思った。

 

あと、大我さんとゆうみさんのジャックとキャサリンは目の輝きがディズニーアニメーションそのものだから、見つめ合うときも気持ちが思いっきり伝わってきて大好きだったし、それは仕草でも感じたこと。

バックハグジャックはもちろん、一緒に歌いながら後ろからキャサリンの手を取るジャックのあの手の滑らせ方と握り方が本当に好きで。リアルに腰が砕けてたから座ってなかったら本当に危なかった。近くで見たら話しながら手を重ねるだけじゃなくて指絡めてるところまで見えちゃって暴れたくなった。良すぎて。

 

大我さんが躊躇なく口にする「きゅん」も大好きで仕方ないところなのでこれからもたくさんそういう機会を形にしてほしいと心の底から思った。

 

 

 

 

 

 

こうして想像を超えるジャックにたくさん会わせてもらったけど、どのジャックもどこか知っている人だったことが私は本当に、本当に嬉しかった。

 

大我さんを好きな気持ちが日々更新されていく中で、ミュージカルが大我さんにとってどれだけ大事なものなのかってことは確かにわかるのに、その大我さんに会えないままでいることがずっとどこか引っかかっていた。もちろん大好きなことは揺らがないけど、大好きだからこそ、その人の根幹にある大事な姿を知らないことに、そしてその姿をいつ見れるのかもわからない状況に、不安が渦巻いて仕方ない時間が時々あった。どんなに無駄な心の砕き方だと知っていてもそれはどうしようもなかった。私にとって”ミュージカル俳優京本大我”はまだ知らない人だった。

 

でもニュージーズでやっと出会えたミュージカル俳優の大我さんは、間違いなく、大好きな知っているSixTONES京本大我さんだった。

何を当たり前の話をって思われると思う。でも私にとってこの確信を得られたことは本当に本当に大きかった。

 

例えば、SixTONESでは見たことない勢いでずっと踊って跳んで走り回ってた時も、指先まで神経が研ぎ澄まされてる仕草を両立してたところ。どの瞬間も軸がブレてなくて、安定感があるのに華麗だったから”美しい泥臭さ”っていう対極を体現してたところ。

SixTONESの中では一番華奢なのに決してそう見せない大我さんの身体の使い方がジャックの逞しさのベースだった。それは間違いなく、もうすでに大好きな大我さんだった。

 

例えば、随所にお茶目さを忍ばせていたジャック。文字通り「ひひっ」って笑うところとか、キャサリンを煽るときにお尻をふりふりしてたところとか、「払わない!」ってセリフが高音だったり「はーらーわーなーい〜」だったりアドリブ効いてたところとか。

特に3つ目はニュージーズ全体も一緒にやってくれるお茶目なアドリブで、そうやって愛くるしさでたくさんの人を虜にして巻き込んでいくところはよく知ってる大我さんだった。お尻を振る姿だってライブ挨拶でわざわざ見せてくれるものだし笑(語弊)

あと、ジャックではないけど、カテコのバク転フェイントも大好きで仕方ない突飛大我さんが凝縮されてた瞬間で、最後に見たジャックの衣装を纏った大我さんが一番知ってる大我さんだったと言えてしまえるのも幸せだなと思う。

 

例えば Something to Believe in だけ他の曲と明らかに歌声が違ったところ。

「どの楽曲でも”同じ京本大我”にならないようにしている」と大我さんはいろんなところで言っているし(これはBOURGEOISの抜粋)、SixTONESの新曲を聴くたびに新しいけど紛れもなく大我さんにしか出せない歌声出会えることが大好き。だからそういう曲に合わせて自分を仕立て直していく大我さんをひとつのミュージカルの中でも感じられたのは大きな安心感と嬉しさに繋がった。大我さんの中に生きる音楽は、ミュージカル俳優としての影響もSixTONESとしての影響もどちらも見事に混ざり合いながら存在してるんだって実感を得られたのがすごく好きだった。

 

例えば セリフがない瞬間、スポットの当たっていない瞬間も本当に表情の機微が細かい大我さん。一番好きだったのはキャサリンが知事を連れてきたときに口パクで「君が?!」って言って すごいな 敵わないやって顔をしてたところ。

そうして細かく演じる姿を実際に目にしたのは初めてだったけど、ミュージカルを「本物」になるための「挑戦の場」として見ていると、今期何度も言葉にしてくれていた記憶はとても自然に蘇った。そしてやっぱりこういう答え合わせの瞬間が大好きだから、SixTONESを、そして大我さんを好きでいることは幸せだなと噛み締めた。

 

 

 

 

 

 

始まる前も、始まってからも、終わってからも、ニュージーズにもらった感情や経験や記憶はどれも初めてものばかりで。そんな作品に出逢わせてもらえて、そして自分の五感で感じ取らせてもらえて、本当に幸せだったなと思う。

次にミュージカル俳優の大我さんに会いに行けるのがいつか見当もつかないけど、というかだからこそ、ジャックの大我さんに会えた記憶は唯一無二の宝物。

この気持ちをずっと大事にするために、どうかこの感情をひたすらに詰め込んだ日記の鮮度が落ちませんように。

Even if I'm gone tomorrow what I felt still will be でありますように。

 

 

 

 

 

 

2021.12.19 aim

 

 

 

 

 

 

*2023年2月28日ロンドン版感想追記(会場写真あり超ネタバレ)*

 

 

このぶろぐを書いてからはちょうど1年後くらい。2022年12月21日、22日の2回、ロンドン版のニュージーズを観劇してきました。

 

今後日本でミュージカル俳優京本大我さんを追い続けられない悔しさを抱いていく代わりに、必ず観に行くんだと開催発表の時から決めていたロンドン版。

既に3回観ていて、映画も観たし、サントラも死ぬほど聴いたミュージカルを違う国で観にいく、というのはもちろん初めての体験で、とても新鮮だった。

目の前に見えている景色にしかない良さを感じるのと同時に、1年と少し前の宝物のような景色が鮮明に蘇る感覚もあって、とにかく本当に不思議な時間だった。

そんな特別な気持ちや気づきを素直に、大事に、ここに仕舞っておきたい。

 

 

 

ロンドン版と日本版の最初の大きな違いは、ロンドン版は専用劇場での上演だったということ。

特に2021年から2022年にかけて日本で一気にたくさんのミュージカルを観たし、ロンドンでもニュージーズ以外の作品を見た経験があるけれど、やっぱり一定期間借りているだけの空間に建てられたセットと、丸ごとその作品専用に仕立て上げられている劇場では没入感が圧倒的に違う。

 

例えば、座席に向かう道中にもニュージーズたちの居住区に忍び込むような感覚になるセットがあった。物語の中に飛び込んでいくようなワクワク感が幕が上がる前からしっかり演出されていた。

ステージを取り囲む形の客席はかなり広々としていて、さすが何もない郊外に建てられた会場なだけある土地の使い方 笑 劇場より小さめのアリーナを想像した方が近いかもしれない。

しかもその客席の間や上の通路を上演中、キャストが何度も何度も駆け回り、客席後方からジップラインみたいにニュージーズが飛んでくるサーカスみたいな場面もあった。駆け回る間に序盤では新聞を(細かい字で普通にニュースが書いてあって、広げるとキャストリストが載ってる粋な仕上がり)、後半では少年赤十字軍(日本語訳これであってたっけ…?)用のビラをばら撒く演出もあって、本当に客席を巻き込む力に長けた演出だった。

わたしは初日に奇跡的にクラッチーが投げた数枚の新聞のうちのひとつをゲットし(ひとつ隣の空いていた席とか一緒に来ていた友達でもなく、本当にわたしの膝の上に新聞が一直線で飛んできたのでもうこれは運命だと思ってる)(信じたもん勝ちオタクマインド)、2日目は撒かれそうなことも想定した近い席を狙って取って笑 少年赤十字軍のビラ手に入れて、とても素敵な思い出の品をもらった。

ちなみにステージに近い席を取っておくと、幕間にステージ上を掃除するスタッフからも落ちてる新聞をもらえるので欲しい人にはおすすめ。

(左のは購入したパンフレット。日本版の方がだいぶ中身は充実してる)

ツイートにも写真結構載せたので記録。

 

 

本編は、まず前提として、展開はセリフ含めサントラとも日本版とも(もちろん言語は違うけど)全く一緒だった。人数や振り付けや人の配置は違えど、本筋は本当に同じ。

 

その上で本編で感じた1番の違いはやはり、キャストのフィジカルの強さ。

本当に純粋に、良い悪いとかの話ではなく、”人種の違い”を強烈に感じるパフォーマンスだった。バネのそもそもの針金の太さが違うとでも表現すればいいのか、生物学的違いでしか説明できないような”””筋肉”””を、とても細い人からも感じて。とにかく精神面より肉体面から感じるエネルギーや圧がすごかった。そういう振り付けや舞台装置だったと思うし、役者自身がどこに力を注ぐか、というフォーカスも身体表現に当たっていたように感じる。

これは踊りまくるニュージーズに限らず、メッダの役者さんに感じたことでもあって。やっぱり恰幅の良い黒人女性にしか奏でられない深みと圧力のある音は特別。身体を表現の道具に使うからには、技術だけではない、生まれ持った特性の違いや活かし方ってあるなあとひしひしと感じた。

 

 

でもだからこそ、日本版キャストから浴びた熱量は精神性が強かったんだなと改めて胸が熱くもなった。

それを特に感じたのはスト破りのシーン。日本版では涙が溢れて仕方なかったあのシーンが、ロンドン版ではあっさり少人数で終わってしまって拍子抜けした。

日本版では確かあそこはニュージーズ全員がいたし、スト破りを決行する3人はもちろんのこと、見守る人も後ろでそれぞれの心情を表現していた記憶があって。”衝突しながらも共に壁を乗り越える”というドラマチックな過程が力強く伝わってきたからこそ、ニュージーズの屈しない絆を印象付ける場面だったと思う。

もちろん、わたし自身の役者陣への思い入れや得ているバックグラウンドの情報量が日本版とロンドン版では雲泥の差なので、それによるバイアスは間違いなくある。日本版はキャストのインスタライブまで観てたわけだから笑。

それでも、そのバイアスを加味しても、”絆”の表現に長けていたのは日本版だったと思うし、それは延期になった期間さえもポジティブに昇華してくれた日本キャストの想いと技量が導いた結果だと改めて感じた。

 

 

そしてこの”絆”の表現の違いはクラッチーとジャックの関係性にも感じたこと。

クラッチーの出番が意外とないことはロンドン版でも日本版でも同じなのに、大我さんと広大くんから感じた”大親友”の空気は正直ロンドン版にはなかった。

どちらかというと共にステージ上にいる時間も長い分、デイヴィとジャックの距離の方が近く感じて、クラッチーからの手紙は少し片想いのようにさえ感じた。

 

ひとつの要因として考えられるのはロンドン版のデイヴィがだいぶイケメン主人公オーラを放っていたこと(ジェシーみたいな脚の長さの小顔イケメンだった)。

下手したらジャックも食ってしまうのでは…って瞬間もあるくらい求心力のある役者さんだったから、発してる熱量も高く感じて、結果的にそばにいる時間が短いクラッチーよりもジャックとの距離も近く感じたのだと思う。(ここで大我さんのジャックはやっぱり特別なカリスマ性を放っていたなと思い出して惚れ直してしまったのは余談)

 

もうひとつ思い当たる要因は、とにかく大我さんが”絶望”を表現することに長けているということ。

ニュージーズ以外でもルドルフを筆頭に、最近だと束の間の一花でも顕著だったように、大我さんの特に瞳や歌声に”絶望”を宿らせる力は本当に特別なものだと思う。だからこそ、ニュージーズではそれがクラッチーが連れていかれる瞬間とその後に続くSanta Fe の切実さに色濃く表れていたし、その深い絶望を感じられることによって、他のニュージーズたちとは違う絆がジャックとクラッチーの間にはあると、受け取れたんだと思う。

 

 

また別角度で考えてみると、個人的に物語の精神性にどっぷり入り込めなかったのは、キャストがみんなアメリカ英語で発音することに必死だと感じてしまったからでもあると思う。

これは私がアメリカ英語話者だからこその視点だと思うけど、(おそらく)全員イギリス人のキャストにはまあ19世紀のニューヨーク訛りの発音が大変そうで…私が観た時点ですでに公演開始から2ヶ月くらい経っていたけれど、それでも2時間ずっと一瞬も集中を切らさず慣れないアクセントで話すのは難しいこと。東京出身者がオール関西弁の舞台に出る、みたいなことと同義かそれ以上の難易度だと思う。

頑張って発音しているように受け取ってしまうと演技に深みを感じられないし、逆に演技に熱が入って発音が中途半端になると現実に引き戻される感覚になる。ベテラン勢のシーンでこの感覚になる瞬間はほぼなかったからさすがだなと思ったけど、レスを筆頭に若いキャストがメインな演目だから、より際立ってしまっていた難しさだった。特に日本版の感想で書いたように、”口調”がキーポイントな物語でもあるからこそ。

だから、”日本語版と英語版”くらい劇的な違いがあった方が、もちろん翻訳によって失われてしまう意味があったとしても、役者の負担は少ないのかもしれないと思った。これは個人的にとても興味深かった新しい発見。

 

 

 

他に日本版とロンドン版を比べることで強烈に感じたのは、小池先生の美を追求する力。

「イケコは美しいものが好き」というのはミュージカルオタクの先輩方からずっと聞いていることで、そうなんだ〜確かに美しいな〜とは思っていたけど、同じ作品を違うキャスト・国・演出で観たことで初めて本物の実感が湧いた気がする。

 

例えば、一緒に観に行ったイギリス人の友達(日本オタクなのでSixTONESも軽く布教してある)に「そういうキャラなイメージないけど大我くんもあんなチャラい感じだったの…?笑」と終演後に訊かれたくらい、ロンドン版のジャックは結構ちゃんとプレイボーイ感があった。

発していたセリフはそんな彼と(英語と日本語の纏うニュアンスが違う以外)同じだったにも関わらず、大我さんのジャックからは女たらしな発言にもチャラさよりもお茶目さを感じたのは、やっぱり大我さんの生まれ持った品格とそれを活かす小池先生の采配があったからなのだと思う。

 

あの荒々しさやエネルギーだけを軸に押し通すこともできる物語においても、日本版では繊細さや麗しさが散りばめられ、品の良さも常に失われることがなかったのは、小池修一郎x京本大我だったからなんだ、と改めて思ったし、小池先生の美意識に大我さんがピタリとハマる理由にもすごく納得がいった。(そして今後もどうか末永く大我さんと素敵な作品とのご縁を繋いでくださいと思わずにはいられない)

 

それはゆうみさんもそう。

正直ロンドン版ではキャサリンがジャックに惹かれ始めた瞬間が全然わからなかった。一番大きかったのはジャック劇場で書いていたのはキャサリンの似顔絵だったと、遠くからでは全然わからない演出だったこと。やっぱりあの美しすぎるどデカゆうみさんのスケッチは本当に本当に大事な舞台装置だったし、暗転していく中だったとしても、あのスケッチに心奪われてぎゅっと抱きしめてしまうゆうみさんの仕草は秀逸だった。

それからこれはめちゃくちゃマニアックだと思うんだけど、Watch What Happens の"sinking in the ocean"の歌詞のところで船が実際に沈んでいくような振りをしていたゆうみさんの可愛さがわたしの目にはずっと焼き付いていて。ものすごくお気に入りの瞬間だったからあそこをロンドン版キャサリンは普通に座ったまま歌っていていて少しがっかりしてしまった。

タップダンス含め、可憐で可愛らしい動きが日本版のキャサリンには多くて、その可憐さが逆にキャサリンの確固たる信念のかっこよさを引き立てていたと思う。

大我さんと同様、元々お持ちの可憐さとその活かされ方がお芝居の品格を上げていたのがゆうみさんのキャサリンだった。

 

そして細かなこだわりという話で言えば、広大くんのクラッチーの凄さも改めて感じたことで。

映画版を観た時点でもクラッチーの足そこまでじゃなかったよ?!って思ったけど、ロンドン版でももちろんそうで。やっぱりあの広大くんのクラッチーの足の角度は本当に異常でとんでもないプロ根性のなせる偉業だった。

 

だから特にメインの3人が表現することに長けていた細部までのこだわりや品の良さが日本版の鍵となっていて、それは小池先生が日本でニュージーズをやったことの意味とも言えるのかなと思った。

 

 

 

日本版への思い入れが強すぎる感想文になっている気がするけど笑 最後にロンドン版の一番好きだったところを挙げるとすれば、それはブルックリンがまさかの女性チームだったところ。

元々白人のキャラクターでも主役に黒人キャストを採用したり(実際ロンドン版ジャックも黒人の役者さん)、人種(特に肌の色)に捉われないキャスティングが最近推進されてる欧米のミュージカル界隈だけど、同じようなdiversityとかinclusivityに対する意欲をこのall femaleなブルックリンからは感じた。

ストーリーは全部知っていた分、一番予想外の展開に鳥肌が立ったのは間違い無くここだったし、実際客席からの拍手や歓声もここが一番大きくて。世の中の流れを肌で感じたし、ミュージカルは観客と空間を共有するからこそ、時代を切り取る生きた表現なんだと改めて感じた瞬間でもあった。

この観点でいくと日本版はそもそもキャスト全員が日本人になることである意味先進的なのかもしれないと思いつつ、こういう世の中の意識がいち早く反映されやすく観客とも共有されやすいのは欧米での上演の方かもなとも思った。

 

 

 

というわけで。

書き上げるまでにもまた時間が経ってしまったけれど、新たな発見からより深く認識できたことまで、得るものが本当に多い贅沢な比較の体験だった。

ただでさえ大我さん主演の日本版でわたしの人生において特別な位置を獲得してしまったニュージーズというミュージカルが、ますます大事になったよという記録。

ロンドン版の記憶含め、Even if I'm gone tomorrow what I felt still will be でありますように。

 

 

 

2023.2.28 aim