Chasing Diamonds

長文考察愛だだ漏れ系aimのぶろぐ。140字じゃ足りない愛は原石を追いかけて。

空中ブランコのりのキキ、かわいいを纏うくるしみ。

 

空中ブランコのりのキキを観てきた。

 

ゆうみさんが主演で広大くんもいるだなんてほぼニュージーズですが?!というある種 不純な動機が始まりだった。手に入れたいチケットがたくさんあるお財布は1回でいいと叫んでいたけど、ご本人としてお話ししているゆうみさんを見たすぎてアフタートークの回を衝動的に追加したのも、美しい振る舞いかというと微妙なところ。

でも本当に、本当に大正解の選択をしたと自分を褒めてあげたい。

かわいくて、やさしくて、あたたかい、実際夏休みでいっぱいいた「小さいおともだち」も楽しめる物語でありながら、「大きいおともだち」の心はそっと底の方をなでられた感覚になった。唯一無二の音楽劇だった。

 

ストーリーの素敵さとか考えさせられたことを文字に昇華したい。だからぶろぐなんて書いてる。でもそれより先に、まずは、とにかくゆうみさんがかわいすぎたことを絶対に絶対に絶対に書いておかなければいけない。

ニュージーズぶろぐにおけるゆうみさんへの最初の言及がこれなわたしなので

もうとにかくめっっっっっっちゃくちゃ可愛かったっっっっっっ…!(息切れ)

Dear diary, Forever NEWSIES。 - Chasing Diamonds

当然の結果と言えば当然。ゆうみさんだいすき。でもキキを演じるゆうみさんはもう本当に本当に、登場の瞬間から人間の域を超えているのではないかと目を疑うほどのかわいさだった。

芯の強い大人の女性になろうとしていたキャサリンと14歳の自信のない少女キキという役柄の違いはもちろんあると思う。でも3年前よりきゅるんきゅるんにきらっきらのかわいさを放つ33歳のゆうみさん、ときめきで胸が張り裂けるかと思った。かわいいを超越したかわいいって死因になり得るって本気で思った(物騒)

開幕後の情報を全然追ってなくて、ポスターのイメージで行ったのも衝撃が大きかった理由だったと思う。だってお揃いの色味〜と思ってきょも担の自我で買ったお気に入りのピンクのトップスを着て行ったくらいだから。ちょっとキッチュなピンクのサーカスのゆうみさんを想定してたら目の前に現れたのは白くて今にも舞い上がっていきそうなほどふわっっっふわで可憐なゆうみさんだった衝撃。なんか気づかないうちに召されてて天国で天使に会っちゃったかな?と思うのも許してほしい。本当に本当に本当にかわいかった。だいすき。

 

まだまだ延々と語れるけどとりあえず致死量のかわいいを浴び続けられた幸せな2時間だったことは伝わったと思うので()物語として好きだったところ、こう解釈してみたいなあって思いを巡らせる幸せをくれたところの話。

 

最初に書いた通り、かわいくて、やさしくて、あたたかい感覚がずっとある舞台だった。

視覚的な理由がまずひとつ。なかなかお目にかかれないような素敵な衣装と舞台装置で、色味も、"衣装でなければ成り立たないデザイン"の塩梅も、衣装に留まらない舞台上の布の活かし方も、全部がとても一貫性を持ってかわいくやわらかくあたたかくて好きだった。

そして何より、ゆうみさんと広大くんのかわいさと、無邪気さや純粋さを纏う表現力の豊かさが劇場を包み込む空気の主成分だった。あんなにかわいいゆうみさんと並んでかわいいと言わせてもらえるなんてもはや奇跡だと思うのだけど、本当に、広大くんも抜群にかわいく凛としていて素敵だった。あんな見事な"かわいい"の世界はそう簡単に作り上げられるわけがないので素質と努力の結晶。

 

でも同時に、とてもかなしく、せつなく、くるしい舞台でもあった。

生きること・死ぬこと・成功すること・失敗すること・夢を見ること・諦めること・受容すること・尊重すること

人生の真ん中に立つ権利を持ったテーマたちが順番にスポットライトを当てられて、その光と影をぐるっと披露しては去っていくような感覚があった。

 

人殺し3兄弟の家で”自ら殺されたいと願う人”の気持ちをすんなりと想像できていた時から、キキにとって死は恐れる対象じゃなかった気がした。むしろ死をある種の救いと捉えられる価値観を持った子だったのだと思う。

それはお父さんが綱渡りの「失敗」を理由に亡くなったと聞かされ、自分も生きる理由の「拍手」を奪う理由が「失敗」である人生を選んでいる自覚と恐れが主な原因な気がしていて。死そのものよりも、それを奪う可能性が高い「失敗」の方がキキにとっては恐ろしいものだった。限界のない努力を重ねる一番近くで「失敗は成功」を体現しているロロがいたのも間違いなく大きい。だからこそ成功のためになら死を選べるという【死<失敗】の捻れた恐怖の式が成立していたのかなと思う。でもこれを捩れだと感じるのもまっすぐだと感じるのもおばあさんの言っていた通り「それぞれの価値観」なわけで。

このキキの価値観と対比する価値観に説得力を持たせるためにロロの人生が描かれていたのも好きだった。とてもくるしかったけどおなかにストンと根拠が落ちていく感覚が確かにあった。ロロが失敗をも受容して何より生きることを最優先にする理由が、"ピエロであるから"以上に妹と離れ離れになってしまったからだったこと。その妹とキキを重ね合わせていること。これがしっかりとわかることで、どんなに想い合っていてもキキとロロの価値観はお互い妥協できるものではないと思わざるを得なかった。愛のいっぱい詰まったくるしさ。

 

キキのお父さんの亡くなった原因やピピが3回宙返りに成功したこと、このキキの恐れの感覚の真ん中にいる話が両方とも「らしいよ」の話でしかなくて、他の場面で見せられる"事実"と違うのではと思わせる構成だったのもくるしいところだった。それから意図せずともキキを決定的に追い詰めたピピを同じゆうみさんが演じていたことも。キキの認識しているピピと実際のピピが別人の可能性だってあるような表現だったけど、自分のいちばんの敵は自分の解釈だよと言われているような気がして、背筋がシャリっとした。裏を返せば自分の解釈を自分のいちばんの味方にもできるわけだけど。

頑張って頑張って頑張り続けて美しく散っていったキキを追い詰めていたのが 存在そのものが人の喜びや幸せになってしまうピピだったのもくるしい。でもこの側面においてはキキとピピは両方ゆうみさんだったことが救いでもあると思っていて。頑張ってないと存在できない自分も、そこにいるだけで愛を体現できる自分も、同じ自分なんだよと言われている気持ちになる。

 

とにかく かわいい と くるしい、やわらかい と せつない がずっとぐるぐると巡った2時間と余韻だった。未知の展開を追いかけるのに必死な1回目はそのぐるぐるにだいぶ翻弄されたけど、アフタートークで丁寧に、でも「綱渡りに挑むような」勇気と勢いも纏ってゆうみさんが演じていることを聴けた上で観た2回目は、そのぐるぐるした気持ちもふわふわの羽で抱きしめてあげられる気がした。

命よりも欲しかった成功を手に入れたキキが美しい鳥になり、その姿を観て感情を踊りにのせて生き続けるロロがいて、そのふたりの世界に純粋に「おーい」と呼びかけるピピがいることは、残酷でもあるけれどいろんな不条理や矛盾もやわらかく抱きしめて進む力を魅せているようで。回数を重ねた方がピピの「おーい」の声音が力強さと純度を上げていた気がして、暗転してそのゆうみさんの声音の余韻に浸る時間がすごくすごくあたたかかった。

 

 

視覚を通して感じたとんでもない量の”かわいい”によるしあわせと、言葉と音色を自分の中に浸透させることで解るくるしみを同時に浴びたこんな観劇体験は初めてで、こうしてまとまらないながらも感じたことを記しておきたかった。ふわふわとした温もりで心の底をなでられた感覚を、ちゃんと忘れないでいたい。こうして心を豊かにしてくれる表現者たちへの愛とリスペクトも心に刻んでいたい。そしてこんなにSixTONESの話をしていないぶろぐをここに残すのなんて初めてだけど、大我さんを好きでニュージーズが人生規模で大事な作品にならなかったら出会えていなかった演目なのは紛れもない事実なので、記す場所はここがいい。

 

今日も今日とて、大好きなひとたちのおかげで豊かさを求める心でいられます。

 

 

 

 

 

2024.8.18 aim