Chasing Diamonds

長文考察愛だだ漏れ系aimのぶろぐ。140字じゃ足りない愛は原石を追いかけて。

『推し、燃ゆ』を読んだらSixTONESを好きな自信が増した。

 

今更だけど、『推し、燃ゆ』を読んだ。

 

世間の注目を浴びている作品であるのと共に、心を抉られるオタク(=同じ種族)が多発しているという空気感だけずっと感じていて。

自分も抉られる側に当てはまるのだろうか、今後の推しを見る姿勢が変わったらどうしようか、というかその想定がよぎるようなオタクになるとは到底思っていなかったな、人生まさかの連続だな、あはは(恐れ)って感じのノリで図書館の予約の順番を待っていたら、突然家族が電子版を購入した(ラッキー)(なのか)

 


結論から言うと、読んでよかった。
私は『推し、燃ゆ』を読んで、SixTONESを好きだと今まで以上に自信を持って言える。

 


『推し、燃ゆ』の主人公にとって推しは”背骨”であり、自分の人生をどうにかこうにか成立させるために必要な存在。

私も、SixTONESにハマる前に邦ロックに縋ってどうにか生きていた時代は、その”背骨”が邦ロックだったので、”どうしてそういう状況があり得るのか”とても簡単に想像がついた。同時にこれを理解できない人が世界にはたくさんいるんだろうなと少し悲しくなった。

 

ただ、私の”背骨”は『推し、燃ゆ』の主人公とは少し違った。まず、1人のバンドメンバーとかボーカルを背骨にしていたわけではなく、同時進行で複数のバンドが好きで、主に人より曲が背骨だった。そしてまだ大した経済力がない時代だったので費やせるものはさほど多くなく、目の前の生活に嫌気が差しながらも、目指したい推し以外の目標も持てていた。

だから私はあの主人公ほどの不安定さや苦しさを経験することはなかったんだと思う。

でも邦ロック界の推しの周りがゴタゴタして、その結果最初に好きになった時のような笑顔や言葉を全く見せなくなった推しがいた期間も長く、それに思いっきり振り回されていた時もあった。(ちなみに今はその推しも私もとても元気。うれしい)

 

そもそも感受性とそれを受け止める心の容量が釣り合っていない人間なので(Twitterでは周知の事実)、自分自身の”背骨”を手に入れた今でも、邦ロック・ジャニーズに関係なく、自分の推しに関連する色々で心を砕く瞬間はたぶん普通より多い(その度に付き合ってくれる周りの人ごめんね、ありがとう)

だから『推し、燃ゆ』を読むことに怖さがあったんだと思う。

 

実際、SixTONESを好きになってTwitterを始めてからは殊更”解釈”に走るオタクになったので、物語の中で”解釈”という言葉が現れるたびに抉られる部分はあった。

”解釈”することに対する認識とか、”解釈”の行き着く先がブログとか、重なりすぎて背骨に触れられた感覚になった。きっとそういうオタクはめちゃくちゃ多い。というか私が繋がってる人はほとんどそうだと思う(暴論)

 


でも、その触れられた背骨がSixTONESじゃない、というのが同時にわかったから、私はこの感想をポジティブに書けている。

 


まずそう思った最初の理由は、”解釈”を試みる目的が違ったから。

たぶんこれが同じだったら180度違う感想になってたかもしれない笑 それくらいギリギリのラインだけど大事なところ。

 

『推し、燃ゆ』の主人公は推しの見ている世界を見るために、推しを通して自分の存在を感じるために、推しを”解釈”する人。
私は、自分がこんなにも強烈に”好き”だと思い、揺るぎない信頼を感じる人はどういう要素で構成されているのだろうと、ある種答え合わせをするために、そしてその”好き”という解をさらに強化するように、”解釈”したい人。

 

自分を成り立たせるかどうか、という0を1にするような発想は私の”解釈”の動機に全く関与していなくて、むしろ、推しを”解釈”することで推しみたいな素敵な人に自分を成長させられるのではないか、という1を10とか100にする発想で私はたぶん”解釈”をしている。あとはより推しと推しの周りの人への感謝と尊敬を募らせるための”解釈”。

 

去年沼落ちぶろぐの最後でSixTONESを好きでい続ける理由を綴った時に、”SixTONESは答え合わせが上手だから”と書いたけど、それは”解釈”を経て余計に感じられることなんだなと、”解釈”は私が成長を求めるため、そしてSixTONESを繰り返し好きになっていくための手段なんだなと、今回限りなく近いけど異なった”解釈”の目的に触れて気付いた感覚。

 

こういうスタンスだから、”推しがいないと生きていけない”、ではなくて”推しがいるから生きるのが楽しい”、というオタクでいたい、と日頃から思ってるんだろうなというのも改めて思った。もちろんこれは”ないと生きていけない”という感覚を味わったことがあるからこその発想だけど。

 

”いてくれるから生きるのが楽しい”をたくさんたくさんくれるSixTONESが私は大好きだ。


どんなに解釈を重ねてもSixTONESの見ている景色を一生見れないのをわかっているけど、同時にSixTONESには外から見たSixTONESが一生見れないわけで。SixTONESとファン、という関係性には絶対に無くならない距離があって。
それをみんな知っているのに、音楽を通して、ライブを通して、メディアを通して、楽しみをたくさん未来に用意して、一緒に同じ時間を生きていこうと、一緒にそれぞれの人生を頑張ろうと、言えるこの現象が私は好き。

 

この距離感があるからこそ”解釈”は存在するし、つまり”解”という”好き”を強化できるし、この距離感を認識しても、というか認識しているからこそ、寄り添おうとしてくれるSixTONESがいてくれるから、もっと好きになる循環があると思う。私は、この遠回りな感じ、この複雑さが、特別に愛おしい。

 

 

そしてSixTONESはこの”距離感”の幅を限りなく広くとってくれるから、余計に好きだし、安心して、信頼して、自信を持って好きなんだと思う。

 

何年もずっと応援してくれてる人も、数日前から好きになってくれた人も、スタッフさんも、もはや嫌いだって言う人でも、少しでもSixTONESに興味や関わりを持ってくれた時点でteam SixTONESだと、そしてそれ以外のファンネームはいらないと、6人は言う。
SixTONESが背骨に近い人も、時によって距離感が変わる人も、同じものとして捉えてくれるすごさ。安心感。

 

”俺たちの存在で明日も頑張れるって感じてもらえたら”とか、

”いつまでも最高のライバルでいてください”とか、

”みんなに頑張る理由をもらえているようにみんなに頑張る理由をあげられたら”とか、

まるで距離感0かのように頼って一緒にいさせてくれる言葉と、”ラフにラブを”を両立させてくれるすごさ。信頼。

 

だから、特に今のSixTONESのファンは、team SixTONESは、『推し、燃ゆ』を読んだら、全く共感できないか、わかるけどこんな苦しみにはきっと苛まれないという自信と、SixTONESへのより強固な”好き”と”信頼”を手に入れられるんじゃないかと個人的には思う。

 


『推し、燃ゆ』の表現に触れられた自分の背骨がSixTONESじゃなかった、と書いたけど、じゃあSixTONESは私にとって何なのかというと、たぶん常に背骨に触れてくる存在ではあるんだと思う。限りなく背骨に近い、背骨じゃない存在。これが本当に特別で、とてもとても大事。

そんなの背骨じゃんって、見る人によっては同じ危うさに捉えられるんだろう。でもここには大きな違いがあるし、それで私は納得してるし強くなれる。

 

美を追求する世界に骨を埋めたいと思っている私の”美の概念”を体現してくれる大我さん。
ときめいて仕方なくて、目指したくて、何千字も綴って絵も描けるほど大好きな衣装。
背骨にしていた時代もあったほど大事な邦ロックとの繋がりを感じずにはいられない音楽。
違うからこそ、違いを大事にしたまま、わかりあって寄り添い合う6人。
心配性でネガティブで感受性が強いまま”一緒にいる”から最強で、弱さのない世界は強さとは無縁だと言える6人。

 

自分が一生背骨に詰めておきたい大事な価値観を、もっともっと大事にしていいよって、温かい手で背骨にそっと触れるような。

 


SixTONESが今日も好きです。

 

 

 

 

 

 

2021.6.20 aim